オーストラリアの田舎に移り住んで感じるのは、現代的な建築やインフラ設備が多くない分、歴史を物語る遺構や風景が目に入りやすいということだ。旅行者にも人気のサウス・コースト地方のベリー(Berry)という田舎町に立ち寄れば、旧時代から残る建築や地名が人びとの生活史を教えてくれる。19世紀の面影が薫る目抜き通りを歩き、ベリーとその周辺への入植をめぐるオーストラリアの歴史に思いを馳せた。(文・写真:七井マリ)
サウス・コーストの開拓時代

シドニーから車で2時間ほど南、サウス・コーストの私の住まいからもそう遠くないハイウェイ沿いの森や緑地の一角に、小さな町・ベリーがある。欧州出身の移住者たちがシドニーを拠点に植民地を拡大していた約200年前、ベリーとその周辺は南部エリアの最初の入植地となった場所だ。私の生活圏であるサウス・コーストの歴史を知る上での要地の1つといえる。
時は1800年代、増え続ける移送者により人口が飽和していたシドニーで、林業や農業のポテンシャルを持つ未開拓のサウス・コーストの存在が知られ始めた。開拓労働用の囚人付きでサウス・コーストに土地を得た最初の1人が、後にベリーの町名の由来となる医師で商人のアレキサンダー・ベリー(Alexander Berry)氏だ。農地や経済活動の拠点として、土地の所有が利益に直結しやすかった時代。開拓の指揮を執るベリー氏の後に続いて、人びとは森を切り開き、運河を整備し、家を建て、畑を作り、町が1つまた1つとできていった。
その過程で建てられたレンガ造りの元銀行が現在、ベリーの歴史博物館となって当時の暮らしを伝えている。館内に足を踏み入れると、19世紀の食器から農具、20世紀初頭の通信設備までがセピア色の写真と共に所狭しと並ぶ。前時代的な医療器具やコルセットを締めて着用するタイプの衣服が、当時の人びとの新天地で一から生活基盤を築いた苦労を物語り、眺めているとタイムスリップした気分を味わえるようだった。
旅行者に人気の町として

目抜き通りの端から端までは15分もあれば歩ける規模だが、現在のベリーは観光地として栄えている。シドニーなどの都市圏からは日帰り旅行も可能な距離で、電車の駅もあり、休暇シーズンには町はかなり混雑する。
ベリーの町を歩くとどこかレトロな雰囲気を感じるのは、博物館以外にもおもむきのある建造物がそこかしこに残っているからだろう。昔の裁判所や宿を再生した施設の他、1800年代の年号が刻まれた小売店の建物もある。時代ものの洋画に登場しそうな西洋建築の重厚さが目を楽しませてくれる一方で、他の多くの町と同様に、入植以前の景色をイメージすることが難しいのもまた事実だ。
観光地らしく、通りには町のおもむきにマッチした新しいベーカリーや雑貨店も目立つ。その裏手には、おしゃれなセレクト・ショップや書店、モダンなレストランも。こぢんまりとしたティー・ショップでは本格的なイギリス式の紅茶とスコーンが味わえた。
欧州から遠く隔たったこの地に元々存在しなかった紅茶文化を前にしてふと、西洋文明が流入する前のオーストラリアの歴史に思いが及ぶ。入植により、生活の場や文化を奪われた先住民は少なくない。周辺地域出身の先住民の系譜を持つ現代の人びとは、ベリーの町の発展をどんな思いで眺めているのだろう。
入植以前のオーストラリア史

オーストラリア全土の先住民はアボリジナル・ピープル(Aboriginal peoples)と総称されるが、実際は約250もの異なる言語を話す種族に分かれている。ベリーやその周辺は、先住民ウォディ・ウォディ(Wodi Wodi)族の土地だったという。しかし、入植という名の侵略で森や土地を奪われた彼らの暮らしがどう変わったか、具体的な記述はベリー博物館では見つけられなかった。少なくとも1967年のオーストラリア憲法改正まで、侵略した側である白人社会が先住民に対等な人権を認めていなかった史実がある。
地図をたどると見つかる一部の地名は、この地域のかつての先住民の存在を辛うじて伝えている。ベリーの町を流れるブロートン川(Broughton Creek)は、ベリー氏のガイドとして働いた先住民男性の通称から名付けられたそうだ。ブロートン氏については、西洋文明と先住民文化との間で次第に板挟みになり、ガイド役を辞した後は森に帰って家族と暮らしたとの記録が残っている。あくまで西洋文明側からの記述なので、彼の行動の背景まで鵜呑みにしていい確証はない。町外れを流れるブロートン川に掛かる橋を車で渡ると、それは茂みに囲まれたひっそりとした小川で、ベリー氏が華やかな町の名になったこととは対照的に感じられた。
ただ、ベリー氏については、土地開拓の傍らで非人道的なサイド・ビジネスに手を染めていた証拠が、近年の歴史研究によって明るみに出つつある。ベリー氏が行っていたのは、埋葬された先住民の長老らの遺骨を秘密裏に掘り起こしてイギリスの博物館に売るという、いわば墓荒らし稼業だったようだ。もし一方向からだけ歴史を眺めて、開拓者としてのベリー氏の姿しか知らずにいたら、それは客観的な歴史認識とはいえないことを改めて考えさせられた。
ベリー発展の「始まりの地」

ベリーの町から車で10分ほど南下した所にあるクーランガッタ(Coolangatta)は、ベリー発展の鍵となったエリアだ。入植当時、現地語の「すばらしい眺め」を意味する言葉に似た響きの地名が付けられた。大きな川と海が出合う河口に面したなだらかな丘陵地帯で、ワイン用のブドウ畑が広がるのどかさは町より村という言葉が似合う。風が渡る広々した眺望が心地良く、思わず深呼吸をしたくなるような場所で、その眺めが人びとの心をとらえてきたことに強く共感できる。
実は、アレキサンダー・ベリー氏が所有地を得たのはクーランガッタだったという。現在のベリーの町の辺りは元々は宿場町として発展し、地域一帯へのベリー氏と一族の貢献が評価されてその名が後に町名となった。当時、シドニーからの交通が陸路でなく汽船のみだったことを知ると、ベリーよりも水辺に近いクーランガッタが開拓の最初の地となったことに納得がいく。
クーランガッタにあるベリー家の墓地を訪れると、一族の歴史をしのぶ石柱が広大な土地を見下ろすように建っていた。だが、ベリー氏が埋葬されたのはここではなく、彼のビジネスの拠点と終の棲家(すみか)があったシドニーのクロウズ・ネスト(Crows Nest)という町。きっと墓は荒らされず、遺骨を売りさばかれることもなく、彼は今もそこに眠っていることだろう。
オーストラリアは入植後の近代史を起点に語られがちな国だが、先住民史を含む実際の歴史は長く複雑で、既存の歴史書には収まりきらない。田舎に移り住んでから増えた静かな時間や目に留まるようになった遺構が、それをいっそう考えさせてくれるようになった。観光や町歩きに興じる時にせめて、そこに敬意を払うべき歴史の層があるはずだということをいつも思い出せたらいい。入植に伴って行われた文化的略奪や現代まで続く先住民の悲運を心に留め置きながら、オーストラリアに来た移民の1人として多面的に学んでいきたいものだ。
著者
七井マリ
フリーランスライター、エッセイスト。2013年よりオーストラリア在住