【今さら聞けない経済学】「塀の中」で経済学を講じる

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今さら聞けない経済学

日本や世界の経済ニュースに登場する「?」な話題やキーワードを、丁寧に分かりやすく解説。
ずっと疑問だった出来事も、誰にも聞けなかった用語の意味も、スッキリ分かれば経済学がグンと身近に。
解説・文=岡地勝二(龍谷大学名誉教授)

第50回:「塀の中」で経済学を講じる

はじめに:経済学の目的=人びとと共に

本コラムを執筆する機会を得て、毎月、経済に関することを執筆してきました。振り返ると、今月号ではや50回になりました。つまり4年2カ月間、毎月執筆させて頂いたことになります。正直に言って、本コラムの執筆を引き受けた時、10回ないし15回ぐらい執筆できれば良いなあという気持ちで引き受けましたが、それが50回連続で書き続けることができ、とてもうれしく、そしてありがたく思います。時として本コラムを読んでくださる、私の目には見えない人たちからの励ましや、ご支援・ご協力の賜物と心から感謝しております。

さて、今回は少し執筆手法を変えて、私が取り組んでいる“仕事”について書いてみたいと思います。それは「刑務所での経済学」という事柄であり、刑務所で経済学とは一体何か、といぶかる人もいるかもしれません。しかし、紛れもなく刑務所で、私は経済学を講じているのです。

私は「篤志(とくし)面接委員」という「ボランティア活動」を2003年1月から続けています。京都・西本願寺の偉い和尚さんが、「どうですか、先生、一度刑務所で講義を」と声を掛けてくれたことがきっかけです。篤志面接委員の仕事にはさまざまな役割がありますが、私の役割は刑期を終えて出所する直前の人に、日本社会の現状などについて月に1回刑務所で講義をする仕事です。つまり、世の中の「経済状態」について講義をすることです。

親しい友人や知人に「今日は刑務所で講義をする」と言うと、そんな仕事があるのか、と怪訝(けげん)な顔をされます。事実、刑務所での経済学の講義はとても難しく感じることがしばしばあります。一方で、やりがいを感じることも多々あります。講義の内容は「インフレ、デフレ」「GDPとGNPの違い」「日経平均の動き」「アベノミクスのあり方」「金融政策、財政政策」などの経済の基本を講義します。

私の講義を聴く人たちの中には何年も刑務所での生活をしている人がいて、「生の講義」をとても真剣に聴いて頂けます。聴講される人たちには、それこそ世間でいう立派な大学を卒業された人から、義務教育をほとんど受けていない人までさまざまです。それでも大学教師から直接、経済学の講義を受けることにはかなり興味があるらしく、皆さん一様に耳を傾けてくれます。そして時として、鋭い質問を私に浴びせてくる人もいます。

日本で公表されている統計資料(犯罪白書:法務総合研究所=平成30年度)によると、日本の刑事施設の運営における収容者に対する対策として、民間協力体制が確立されており、それを「篤志面接委員」という名称で運営されていることが明記されています。その役割は、被収容者と面接し専門的知識や経験に基づいて助言指導を行うこと、と明記され、篤志面接委員の仕事は、被収容者の精神的な悩みや家庭、職業及び将来の生活に対する助言、趣味、教養に関する助言などを行うこと、とされています。

毎月一度、刑務所へ出掛け、収容者の人びとに講義をすることは、なかなか骨の折れる仕事であることは事実です。しかし大学教師として、何か社会に貢献できることは大切なことであると自分に言い聞かせて通っています。

日本における犯罪発生の実情

手元に『犯罪白書』(法務総合研究所)があるので、それに基づき、日本で社会的な重大問題である犯罪はどのくらい発生しているのか見てみましょう。資料によると、17年に日本で発生した刑法犯の発生件数は91万5,042件。そのうち、最も多い犯罪は「窃盗」で65万5,495件であり、全体の71%を占めます。殺人事件の発生は920件で、総犯罪発生の中でほぼ1%未満という事実が見られます。年に殺人が920件も発生すること事態が驚きですが、その数字を他の国と比べてみたいと思います。

各国のおける殺人の発生件数及び発生率の比較(10万人当たり)

発生件数 発生率(%)
日本 2011 442 0.3
2015 363 0.3
アメリカ 2011 14,661 4.7
2015 15,883 5.0
ドイツ 2011 738 0.9
2015 682 0.8
フランス 2011 856 1.4
2015 1,017 1.6
イギリス 2011 641 1.0
2015 649 1.0

資料出所:犯罪白書、平成30年度版 法務総合研究所(P.22)

上表の数字は、人口10万人当たりの発生件数を表したものです。数字が小さいように見えますが、日本では「10万人中363人が殺人を犯す」ということを意味しているのです。そうして見てみると、これらの数字が決して小さな数字ではないことが分かります。

殺人発生件数の比較すると、上表は深刻な事実を表しているように見受けられます。まず、アメリカの殺人発生率が極めて高いという事実が読み取れます。日本とアメリカの殺人発生率を比較してみると、アメリカの発生率は、何と日本の約43倍の違いがあります。日頃、新聞などで頻繁に見られるようにアメリカでは殺人事件の発生が極めて高いという事実が、同表より理解できると思います。

そしてそれは、アメリカが銃の個人所有を認めている事実に依存していると思います。しかし、アメリカが危険な国かどうかをここで論じるつもりは全くありません。私は長くアメリカの大学で勉強し、アメリカ社会で多くの人と親しく交わり生活しましたが、一度でも「危ない」という目に遭ったことはありません。

さて、ドイツ、フランス、そしてイギリスも日本と比べると、約2〜3倍も殺人発生率が高いです。一般にこれらの国々はとても安全な社会だと思われますが、現実には殺人発生率が高いことが分かります。

今月号を執筆するに当たり、この『犯罪白書』を目にし殺人発生件数が、世界の主な国と比べて日本はかなり低いという事実が判明し、少し安堵しました。当然、殺人という悲しい事件は発生してはいけないのですが――。

残念ながら、オーストラリアに関する統計資料は手に入れることができなかったので、オーストラリアについて意見を述べることはできません。

日本における犯罪の発生率

日本は、世界でもまれに見る「安全な国」だと世界から信頼されています。恐らくこれは、先に見た『犯罪白書』からも事実だと思います。

刑事事件で最も多い事件は、いわゆる「窃盗」と言われるものですが、日本ではその発生率は減少傾向にあります。先の統計資料によると、日本において年間に発生する窃盗は11年で80万3,249件であり、15年では54万7,030件と、5年間で何と25万6,219件も減少しているのです。「25万6,000件も減少している」という事実は、誇れるものなのではないでしょうか。

アメリカの事情を見てみましょう。アメリカの窃盗発生件数は、11年=905万2,743件で、15年=799万3,631件となっています。アメリカでも5年間で、約106万件も減少しています。アメリカと日本との人口を比較してみると約3倍の差があるので、事件発生比率も約3倍の差があっても何だか当然のように思いますが、日本とアメリカでの事件発生比率は何と14.6倍(15年比較)の差があるのです。

刑事事件は起きてはならないのですが、日本とアメリカとの事件発生率を比較すると、何だか日本という国は、やはり世界でも最も安全な国だということが分かります。

しかし、ここで悲しい現実を申し上げなければなりません。犯罪の年齢別検挙率を見てみると、70歳以上の高年齢者による犯罪発生率が増加傾向にあるという事実です。先の『犯罪白書』によると、刑を犯した年齢別の推移では、胸の痛みを覚えるような事実が判明します。検挙人員の「年齢層別構成比の推移」で70歳以上の犯罪者の変化を見てみると、1998年では約3%ほどだった70歳以上の犯罪発生率が、2017年ではその比率が何と14.7%も上昇しました。約20年間で、70歳以上の犯罪者が約5倍も増大してしまったのです。

経済を学び教えている私としては、この20年間と言えば、ちょうど日本経済が大不況に突入し、人びとの生活が奈落の底に陥れられた時期でした。年齢の高い人たちは、そうした経済不況の煽(あお)りを食らって職に見放され、家族にも見放され、その挙句、日々の生活に窮するあまり、他人の懐を当てにするようになったのでしょうか。つまり、刑を犯してでも生きていく手段を見つけようとした高年齢者が一挙に日本社会に現れた事実を物語っているのではないでしょうか。

日本社会にも「下流老人」という現象が起こっていると言わなければなりません。それは、老後崩壊の憂き目が紛れもなく現れ出していることを暗に示しているのではないでしょうか。これまで自分の人生を精一杯生きてきて、「さあ、これから残された我が人生を自由に生きよう」と考えた矢先に大不況に見舞われ、長年勤めた会社からも業績不況などを理由に「整理」され、これまで長年積んできた年金も思い通りの金額を手にすることができず、どのように生きていくべきか、という不安定な気持ちが一挙に他人の財布に手をしのばせることにつながったと言えるのではないでしょうか。私は、この悲惨な現実に胸の痛みを覚えます。

こうした事実を政策当局者はどのように見ているのでしょうか。これは、経済学の問題であると同時に、政治の問題でもあると言わなければなりません。


岡地勝二
関西大学経済学部卒業。在学中、ロータリークラブ奨学生としてジョージア大学に留学、ジョージア大学大学院にてM.A.修得。名古屋市立大学大学院博士課程単位終了後退学。フロリダ州立大学院博士課程卒業Ph.D.修得。京都大学経済学博士、龍谷大学経済学教授を経て現在、龍谷大学名誉教授。経済産業分析研究所主宰

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