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オーストラリアの田舎で暮らせば⑥馬とポニーのペットシッター

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 オーストラリアの田舎ではペットの種類が小動物ばかりとは限らず、大型の家畜と共に暮らす人も珍しくない。私が暮らすサウス・コーストの小さな田舎町には「馬に注意」の道路標識が立ち、公道で飼い主にリードを引かれて散歩する馬やポニーを見掛けることもある。隣人の飼う馬たちの餌やりを通して、人間よりも大きな動物のいる日常に触れる機会を得た。(文・写真:七井マリ)

のびのびと暮らす近所の馬たち

穏やかな性格の牝馬だが体重は600キロ近い

 隣人の敷地に入って木々の間の小道を歩いていくと、やがて視界が開けて緑の野原が広がる。草地の向こう端から美しい茶色の馬が居場所を知らせるように短くいなないた後、穏やかな足取りで近づいてきた。何度か会っただけの私を覚えているのか、その大きな頭をそっと寄せてくる。餌を催促する意味もあっただろうが、その愛らしい仕草にすっかり心をつかまれ鼻筋や首をなでてやる。

 大きな馬とポニーを1頭ずつ所有する隣人と知り合ったころ、もし興味があればお願いできたら、と留守中の餌やりのオファーを受けた。犬や猫は飼ったことがあるが、馬との関わりは子どものころの旅先での乗馬体験くらいだ。それでも、雄大で優美なその姿に抱いた畏怖と憧れの入り混じった感情がよみがえってきた。馬の生態や賢さにも興味があり、数日間の餌やりを引き受けることにした。

 餌やりの方法を習いに行った際は、近くで見上げた馬の迫力に圧倒された。重量感たっぷりの体躯を支える硬く筋張った脚。艶のある毛に包まれたしなやかな筋肉。馬の背中までしかない私の身長では、並ぶと自分がいっそう小さく感じる。馬の世話に慎重さを要することは想像に難くない。

 2頭ともメスで、比較的扱いやすい性格だと隣人が言う。体重約600キロの馬は特に気性が穏やかで、300キロ弱のポニーは空腹時にやや不機嫌になるものの基本的にフレンドリー。毛並みをなでてみると手にじわりと温かく、この大きな生き物に親しみが湧く。

 2頭が広い平地で青々とした夏草を食むのどかな景色には、牧歌的という言葉がよく似合う。こんな場面を目にするたび、オーストラリアの田舎で暮らす実感を新たにする。

家畜を超えた馬と人との結びつき

自然に囲まれた土地で暮らす馬とポニー。餌の時間以外はパドックで草を食べている

 馬は巨体や屈強な四肢が特徴だが、慣れない物音に怯え、小さな病気やけがが時に命取りになる繊細さも併せ持つ。複数の単語や合図を理解し、個人を認識して人の性質や気持ちを敏感に感じ取る能力もある。

 子どものころに読んだ『黒馬物語』や『大草原の小さな家』シリーズなどの英米児童文学のおかげで、西洋文化圏における馬の存在感は記憶の片隅に残っていた。作者の観察眼が反映されたそれらの物語からは、家畜という役割を超えて馬が人と特別な信頼関係を結んできたことがうかがえる。

 ヨーロッパからの入植の歴史を持つオーストラリアでも馬は身近な動物のようで、地方部では農家でなくても馬を飼う人が少なからずいる。豊かな牧草地のある土地に住んで愛馬との日常を楽しむそのスケール感は、当地の広大さによく似合う。

 余談だが、オーストラリアの一部の地域にはブランビー(brumby)と呼ばれる野生の馬がいる。外来種として持ち込まれた馬が方々で逃げて野生化し、増え続けた結果、現在では在来の生態系を脅かす危険な存在だ。私が住む地域にはいないが、同じニュー・サウス・ウェールズ州内のコジオスコ山の周辺だけでもブランビーの生息数は約1万9000頭にも上る。それでも一定数の駆除で頭数を抑える自然保護政策に根強い反対派がいるのは、当地で馬がそれほどに身近だからだろう。

思いがけずポニーで乗馬体験

食べすぎを防ぐために、ポニーにはマズル(muzzle)と呼ばれる口輪を付けている

 シドニーに住んでいたころ、週末の野外マーケットには有料の乗馬体験コーナーが設けられ、ポニーの背で子どもたちが笑顔を見せていた。そのためポニーは子ども向けと思い込んでいたが、実際は体重の2割程度の重さまで難なく支えられるそうだ。ある時、隣人のポニーに乗せてもらえることになった。

 鞍を付けたポニーにまたがり、手綱に手を掛け背筋を伸ばす。隣人に引かれて歩き出すと想像以上の揺れに緊張したが、自分の脚から伝わるポニーの胴体の感触と体温に気持ちが和む。振り落とされないようバランスを保っているうち、ポニーと自分の体のリズムの合わせ方がつかめてきた。手綱や脚を使って方向や停止を指示する方法も習い、おぼつかないなりに少しは形になった。丁寧に教えてくれた隣人と、子どもより重量のある初心者を文句も言わずに乗せてくれたポニーにも感謝だ。

 もう1頭の馬の方は過去にけがをしたこともあって、乗馬からは引退しているという。ポニーでの乗馬体験中、離れた柵の中にいた馬は自分だけ仲間はずれだと感じたのか、何度も繰り返しいなないていた。

2頭それぞれのコミュニケーション

乾いた細かい飼料で馬がむせないように、水で湿らせてから与える

 餌やりの日、干し草や配合飼料のある小屋に入ると、馬は金属製のゲートの前にやって来て、私が餌の準備をしている間中そこから動こうとしない。といっても、犬のように尾を振ってはしゃぐでも、猫のように甘い声で鳴くでもなく、馬は静かに中の様子をうかがっているだけだ。その控えめな気配は自然で心地良い。

 用意した餌を持って小屋を出るには、馬が立ち塞がるゲートを押し開ける必要がある。隣人から聞いた通りに名前を呼んで低い声で「Back!」と言うと、馬は思いの外すぐにゲートから離れた。意思の疎通で、心理的な距離が一歩近づいた気がする。

 餌を飼い葉桶に入れ終わる前に、馬は鼻先を突っ込んで食べ始める。馬と自分の頭が接近する時は、間に片手を浮かせて必ず頭をガードするよう隣人から教えられた。馬の視野の外から近付く時は驚かさないよう声を掛ける、至近距離では馬の脚が当たらない位置に立つなど、力の差があるがゆえに安全策は必要だ。

 別の囲いの中にいる食いしん坊のポニーは餌を待ちきれず、時々ゲートに頭突きをしている。こちらが辛抱強く何度か「Back!」を繰り返すとしぶしぶときびすを返し、餌をセットするや否や一心不乱に食べ始める姿が可愛らしい。

 2頭の食事中、それぞれの様子をくまなくチェックする。傷や腫れはないか、動き方や食べ方に異変はないか。動物の体の大小で命の重さに違いはないが、見た目の大きさは責任の重大さを意識させる。

 また明日、と帰り際に声を掛けると、馬は干し草をそしゃくしながら頭を上げて黒目がちな目でこちらをじっと見る。めったに鳴かない静かな生き物だが、その全身から伝わってくる温かさがある。声にならないものを1つずつ受け取り、明日はもっと分かり合えるといい。

著者

七井マリ
フリーランスライター、エッセイスト。2013年よりオーストラリア在住

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