Thank You For Teaching Me

ケアンズ風物記全豪州空手道連盟の州大会に出場する私のメンバー17名。ブリスベンまで遠征することで、皆が大きな家族のように仲良く、助け合うようになる。それが一番の収穫。ちなみに試合の成績は金8、銀9、銅11

ケアンズ風物記
南緯17度の太陽
其の113 松本主計

Thank You For Teaching Me



「ヒデェもんでゴザンしたヨ。頭の上半分がガバッと開き、背後の壁は赤ペンキをブチまけたようでネ。でも妙なモンですナァ。同じ屋根の下にいて、銃声らしい音が聞こえなかったンでゴザンスからネェ」

 ブレヤーの父は303(第1次、第2次大戦での豪州軍軍用銃)の銃口を口に入れ、足の指で引き金を押して命を絶った。私が35年前、ケアンズで空手道場を開いたその直後だった。ブレヤーは私が木曜島で、仕事の傍ら空手指導をしていたころの生徒で、私が島を出ると、後を追うようにケアンズへやって来た。
 それにしても不謹慎なことだが、あの303の凄まじい発射音が、銃口を口にくわえただけで消えてしまうものだろうか。ブレヤーが父の死後、私にボソッとつぶやいた言葉が、今でも耳にこびり付いている。
 受話器から嗚咽が漏れた。一瞬誰とも判らなかった早朝の電話は、ジェフの兄のギャリーからだった。ジェフが銃で死んだ、と言う。銃の手入れの最中、暴発したらしい。取るものも取り敢えず、階下の車に飛び乗った。運転中、考えた。ギャリーの話には、合点のゆかぬことがある。30年前ごろの北部クイーンズランドの男たちは皆、銃の扱い方は熟知していた。だからこそ銃による事故など皆無だった。私だって、実弾を装填したままで銃の手入れなど、絶対にしない。
 ギャリーたちは2年ほど、私の道場に来ている。ジェフの死は事故として処理されたらしいが、私には腑に落ちないことがあった。ギャリーの私を見る目になぜかこだわりが感じられる。ジェフの死はもしかしたら自殺、ではなかったか。ではなぜ事故死として処理したのか。2年以上も彼らを見てきた私には、思い当たる事情もあるのだが、これは話すことではない。私の胸に仕舞ったまま、あの世に持って行く。
 ケンもまた、銃で死んだ。銃器担当のポリスのラリーが私の家に連れて来た。ラリーの友人だけあって、銃の知識は高かった。私の道場へも入門し、空手のみならず居合の稽古にも熱心に参加した。真剣で組太刀の演武をしていた時、間合を誤った相手に足を斬り込まれたこともあった。あと半歩踏み込んでいたら、ケンの足は体から離れていた。
 よくしゃべる男で、2人の子どもも入門し、悩みのある男のようには全く思えなかった。そのケンが彼の愛銃で突然命を絶った。彼の妻からの乾いた声の電話で彼の死を知らされた私は、すぐに彼女に会いに行った。リビングに入って驚いた。何もないのだ。床はザラついた埃がたまり、生活の温かさが感じられない。その時初めて、ケンの心の中の荒涼とした心象風景が見えたような思いがした。死ぬ前になぜ私にひと言、という悔しさは、長く私の心の中に残ったままだった。
 ある時、いやこれは昨年のことだ。ポッと入った店の店員に、懐かしげに声をかけられた。誰か判らなかったが、話をしている内に20年前の面影がよみがえってきた。ソウか、こんなに大きな青年に育ったのか。ケンの息子だった。その夜は何やらホッとした温かい思いを抱いて家に戻ったものだ。
 青みがかったとび色。そんな色があるとしたら、リルの目かもしれない。鋭い、女の子にしてはかわいげのない目、とも言えるが、意志のシッカリとした、目線のピンと通った目付き、にもとれる。
 全豪州空手道連盟の州大会は今年の5月。ブリスベン。私は競技空手の師範ではないし、競技は空手という大きな流れの中のごく一部、と捉えている。勝負の勝ち負けにのみこだわると、もちろん競技としての最終目的なのだが、何かこううまくは言えないけれど、近視眼的な人間に育つような感じがする。武道なんてものは、人間らしくユッタリと生きる、その心構えを日々の稽古を通し、埃のように少しずつ積み重ねる。その一生の営みの中にあるような気がする。
 私は凡人だから、武道の達人の言う悟りの世界などとは、全く縁がない。そんな頼り甲斐のない、競技にはあまり興味のない私だが、試合は年に1回のみ、州大会に出場させる。短期間の目標に向かって強化練習させるのは、いい励みになる。試合に勝つ喜び、負ける悔しさを経験させるのもいい。何より大人も子どもも一緒になって、チームとして助け合い、まとまりが生まれるのは、試合遠征ならではだろう。
 チームの編成は強制ではない。興味のある生徒の中から選出する。稽古は週末。これは私の勤労奉仕だ。普通の稽古日は試合に出場しないさまざまな生徒が来るので、一般的な皆が楽しめる稽古をさせた方がいいのだ。
 リルは支部道場の生徒。試合に興味があり、チームの一員となっていた。空手歴2年の14歳。背は私より高い。シンドイ空手の稽古を2年も続けているのだから、ある程度の意志力もあろう。
 彼女の両親にも会った。リルから想像していた通りの、シッカリした両親だった。子は親の鏡。子どもがボロいのは、学校教育でも社会でもない。親の責任が第一。親を見ると、入門した子どもが空手の稽古を続けることができるかどうか、ほぼ判る。
 リルは弟と2人。ところがその時、両親は2人の黒人の女の子を連れていた。私は友人の子どもの面倒を見ているのだと思ったが、自分たちの子どもだと言う。エッと思ったが、エチオピアからの養女だと聞いて納得した。2人の女の子、家族の中にスッカリ溶け込んで、全く実の子と変わらない。よくやるナァ、と感心したことだ。
 リル、確かにシッカリしているのだが、性格に少し横着なところがある。友達のように気安く対等に付き合える民主的な先生、などという現代の学校のような奇麗事は、私の道場では通用しない。私の気に入らぬ悪い所は、怒鳴りつけてでも直させる。この年齢で直しておかねば遅すぎるのだ。1度はエラク怒鳴りつけ、道場から叩き出したこともあった。
 まぁ、こんなことは大したことではない。やっかいだったのは、リルはプレッシャーに弱いのだ。バンバン攻撃され、自分の手足が出なくなると、泣き出してしまう。少しでも早く技を上達させ、彼女に自信を付けさせること。そう考えた。やれ、面倒な生徒が来たものヨ、とも思ったものだ。
 最後の週末稽古を終え、1週間後はブリスベンの試合という5月9日。母の日だった。チームのレベルは決して高くはない。まァ勝たないまでも、恥ずかしくない程度の試合はできる、と私は踏んでいた。
 次の朝、月曜日。電話が鳴った。早朝だった。電話で起こされるのはいやなので、放っておいた。ソウダ、電話があったナァ、と思い出したのが朝食の後。メッセージを聞いた。「センセイ…」。支部長のクリスからだった。何かあったナ。直感した。彼は決して早朝には電話してこない。声が異常に沈んでいた。早朝の電話の非礼を詫びた後、…リルの父が急死しました…。
 2日前に元気な姿を見たばかりだった。事故だ。それしかあんな元気な人間が急死するはずがない。急いでクリスに電話した。リルの父親は…自殺だった。言葉がなかった。いったい何があったのだろう。死に方が死に方だけに、我々が騒いでは家族に迷惑だ。静かにしておこう。
 その夜の稽古。チームのほとんどは参加していたのに、当然のこと、リルの姿はなかった。リルはクリスの生徒だった。チームから外してください、と彼は言う。私の怒鳴り声に耐え、今日までがんばってきたのに、と思ったが、その反面、私にはリルが戻って来るような、そんな気がしていた。
 次の夜の稽古、チーム全員参加。リルは来なかった。稽古開始。私の勘は当たらなかった、と思っていた矢先、リルが走り込んで来た。自由稽古になった時、私はリルの前に立った。顔が汗に濡れ、とび色がかった青い目が、意外なほど静かな眼差しで私を見ていた。私は何も言わず、リルの手を取った。彼女の手が遠慮がちに、ソッと私の手を握り返してきた時、リルは試合に行くつもりだ、と思った。
 試合はその週の土・日だった。私はチームだけを送り、ケアンズに残った。私がいると私に頼ってくる。いない方がいいのだ。チームのメンバー同士が皆助け合うからだ。リルは彼女のみならず、母親と全員の子ども連れだった。
 待っていた電話が鳴った。「センセイ、金メダルを取ったヨ」、はずんだリルの声。ソウカ、と返事しただけで会話が途切れた。試合場のざわめきが聞こえる。そしてポツンと「Thank you for teaching me」とシットリと静かに言った。途端、何かが急に込み上げてきて、ウン、ウンと喉の奥でしか返事できなかった。「See ya in Cairns」。いつもの跳ねっかえりの声を残して電話が切れた。
(注:人名は仮名を使用しました。)


まつもと・かずえ●
昭和17年2月1日生まれ。東京水産大学増殖学科卒業。1966年木曜島でPearls Pty Ltdに勤務。75年に退社。その後ケアンズに空手道場「Matsumoto Karate Academy」を開く。現在、オーストラリア空手連盟ノース・クイーンズランド代表

新着記事

新着記事をもっと見る

新着イベント情報

新着イベントをもっと見る