戦いの陰で

ケアンズ風物記
私が豪州中から集めた日本軍軍刀や、占領軍が日本から持ち帰った日本刀の一部。鞘だけの分は刀の質が良かったので、日本に送って研磨加工をし、全部白鞘に入れて保管してある。右側の未加工の分は、円の下落で研ぎ代金が一振り2,000ドル以上になり、オイソレと、刀も研げなくなった

ケアンズ風物記
南緯17度の太陽
其の116 松本主計

戦いの陰で



「エレェ刀が出てきたゼ」。電話はマッケイのダグ。もうかなり前の話だ。パプア・ニューギニア(PNG)の北東、ニューブリテン島のラバウルに日本軍捕虜の収容所が設置されたのは、1945年8月。終戦の前後ごろと見ていい。ラバウルには開戦当時、台湾南部の台南で誕生し活躍した台南空が進撃。以後2年間あまり、海軍の名機・ゼロ戦を駆って名を馳せたラバウル航空隊の舞台になる。今ではもう航空隊の存在も、ラバウルという地名さえ、知っている人が少なくなった。

 豪州軍第42大隊キャプテン、ヘクター・マクドナルドが、収容所の責任者として派遣されたのは、終戦の年12月の末のようだ。
 1945年12月31日。キャンプの責任者として赴任す。サカモト、モリ、イズミダなどの日本軍将官と会う。夜は日本茶、酒、タピオカ・ワインで歓迎される。
 タピオカは芋の一種。捕虜となっても、酒を造る余裕が与えられていたようだ。
 1月8日。日本陸軍キャンプの視察。我が豪州軍のそれが、日本軍キャンプのせめて半分なりとも整備されていたら、私はそれで大満足なのだが。日本軍士官60名余、私に追従。あまりの礼儀正しさに、最後には肩が凝る思いがした??。
 イシハラから私に送られた、刀、の話を聞く。
 私がラバウルを訪ねたのは、PNGの独立の年だったから、もう35年も前になる。そのころ、世界最小の独立国、太平洋上に浮ぶナウル共和国はリン鉱石の産出国で、世界有数の豊かな国でもあった。そのナウルからなんと鹿児島に飛ぶ週1便の直行便が運営されていた。客はほとんどない。金のあり余った国の、遊びのような便なのだ。それに乗ってみたい、と思った。
 当時私は豪州最北端、トーレス海峡の木曜島に設置された南洋真珠養殖場で働いていた。妻帯赴任の私の休暇は2年に1度。その帰国休暇が利用できた。
 まずPNGのポートモレスビーに飛ぶ。そこから北岸のマダン、東岸のラエを経てラバウルに行く。3日間のラバウルの後、南下してボーゲンビル島のブカ。そしてガダルカナル島などからなるソロモン諸島の首都ホニアラからナウルに入る。
 私は日本の真珠湾攻撃の1カ月後に生まれた。物心ついたころより、連合軍の規制の下、新制の教育を受けた。戦争に関しては、何1つ知らされなかった。それでもなぜか子ども心に、ラバウル、という名前が引っ掛かっていた。たぶん戦地から生還した父が、よく歌っていた曲、「影を慕いて」「勘太郎月夜唄」「上海帰りのリル」「帰り船」などの中に、ラバウルの歌があったように思う。
 サラバ、ラバウルよ、また来る日まで…。その父の好みがソックリそのまま私の体の中に残り、私は今でも、上海帰りのリルなのだ。
 ラバウルの空も海も、30年前の激戦地と思えないほど、青かった。ヤシの木が風に鳴る。町の一隅には日本軍のセメント造りの地下壕がそのまま残っていた。山本五十六海軍大将もそこを利用したそうだ。それにしてもあまりにも小さく貧弱に見えるその防備に驚いた。
 私のナウルへの長旅の途次は、偶然にも全部大東亜戦争中の激戦地だった。
 日本軍の残した大砲は、その時もまだ空しく空を睨んでいた。PNGでは11万以上の将兵が戦死し、ホニアラのあるガダルカナル島では、1万5,000人が餓死した。ガ島(餓島)と略される所以である。戦争のことを全く知らなかった私が、故国を遠く離れて死なねばならなかった同胞のことを考え始めたのは、この旅がそのきっかけになった、と言っていい。
「刀だけじゃないンだヨナ」とダグ。キャプテン・マクドナルドの収容所での任期はごく短いものだった。その短期間の毎日を克明に綴った日記も、刀とともに出てきたのだ。この刀は、何としても入手しなければならない、と思った。
 日記は未亡人の厚意で、全ページのコピーをいただいた。刀袋と、彼の日記の1月8日に出て来る刀の話。その時にイシハラは、紙に刀の銘をキチンとコピーして、その由来を説明してあった。その用紙も当時のまま保存されていた。
 マクドナルド氏は几帳面な性格だったらしい。乱れのないキチンとした書体で、その日記は2月7日まで毎日、続いていた。
 1946年1月9日。カンダが刀を吊るすベルトを持参してくれる。
 1月25日。タナベ、彼の妻女が出征に際して縫い上げた刀袋をくれる。
 その刀袋の内側には、カチッとした筆字で、「技術報国、滅私奉公。昭和十七年十二月、百壹設営隊、田辺技手」とある。技術方面の将校だったらしい。
 2月7日。日本兵への英語レッスン。という文も見える。将校たちに英語を教えていたこともうかがえる。
 写真が1枚あった。刀の持ち主のイシハラ、の写真と聞いていたが、写真の裏に、「陸軍軍医大尉、松本祐之進。千葉県市川市八幡新道、AT RABAUL」とあったので、明らかに当人ではなかった。シッカリした顔付きの軍医で、マクドナルド氏との間にどのような交流があったのだろう。
 刀は摂州住藤原忠行。實分年間(1661?1672)のもので、大阪での有名刀工、一竿子忠綱の弟なのだ。軍刀に仕込んであるからして、まさか本物とは思わなかったが、日本に送って研ぎをかけ、刀剣審査にかけると、本物も本物、見事な忠行の一振りだった。刀の入手もありがたかったが、それよりもマクドナルド氏の日記。ラバウルでの日本軍人捕虜収容所の毎日がよく判り、また日本兵と豪州兵との交流が思いがけず自由であったことは、収容所内であるだけに貴重な記録になるだろう。
 長年の知り合いドクター・スウェインの持ち物だった日本刀。その軍刀は血がアチコチに滲み、泥水で煮染めたような袋に入っていた。「私がノー、帰還する船の中で、使用ずみの包帯で縫い上げたモンですジャ」とドクター・スウェイン。
 甘ったれの彼の息子が数年の道場稽古の後、見違えるようにたくましく成長し、ドクターは私に絶大な心服を寄せてくれていた。
 彼は戦時中、豪州軍軍医としてボルネオに出征、そこで終戦を迎えた。ボルネオにも日本将兵を臨時に収容する捕虜収容所が設置され、ドクターはそこでけが人の手当てに従事していたようだ。
 ある時、少し英語の話せる若い日本軍士官の治療をした。たぶんその士官は学徒出陣兵だ。敵同士の間柄ながら、「ナニヤラ気持の通じるものがありましてノー」。その日本軍士官、ドクターが豪州へ帰る時、泣いて別れを惜しみ、彼の軍刀をドクターに差し出したという。
「アリャ何という名前だったかノー。生きていれば、私と同年ぐらいじゃがノー」と、ドクターは遠いその日を懐かしむように、目を空中に漂わせた。
 その時ドクターの目の中には、いつまでも年を取らない日本軍士官の顔が浮かんでいたのだろう。
「この軍刀は、日本人であるアナタが持つべきものですジャ。息子のお礼ですジャ」。ドクターは数年前、亡くなった。
 日本軍士官の軍刀は、今でも血染めの袋に入れたまま、私の座右にある。
「アナタ、ニホンジンカ」。問いかけてきた現地人がいた。ガ島のホニアラのホテル。その日、現地人による歌とダンスがあるというので、プール横のバーでビールを飲んでいた。
 ソウダ、と言うと彼は親しげに笑い、「ワタシ、ニホンジントモダチ、タクサンイタヨ」。片言の日本語をしゃべるのだ。
 彼は戦時中、ホニアラに設置された臨時の日本軍将兵捕虜収容所で、豪州軍の雑用係として働いていたらしい。「ニホンノヘイタイサン、ミナイイヒトバカリダッタヨ」。仲良くなった日本兵に日本語を習ったそうだ。ところがある夜、何百という日本人捕虜が一斉に「ミンナミンナ、死ンダヨ。ドシテニホンヘイタイサン、シヌル」。その男、何人もの日本兵の名前を言いながら、突然顔をクシャクシャにして涙ぐんだ。
 捕虜たちは申し合わせていたのだろう。ある夜一斉に衣服のベルトを立木にかけ、首を吊って死んだそうだ。NSW州のカウラの集団脱走が長年表面に出なかったように、ガ島の集団自決は、もう完全に過去のページに隠されてしまっている。
「エンヂーノーオートー、ゴーゴートー、ハヤブサワユクー」。その男は突然、日本兵に習ったという歌を歌ってくれたが、私にはよく判らなかった。後年、現代史に興味を持ち、また当時歌われた軍歌も聞いたことがあった。灰田勝彦という歌手の歌う、加藤隼戦闘隊。その歌の最初の一節を聞いた時、ハッとした。
“エンジンの音轟々と、隼は征く雲の果て”。


まつもと・かずえ●
昭和17年2月1日生まれ。東京水産大学増殖学科卒業。1966年木曜島でPearls Pty Ltdに勤務。75年に退社。その後ケアンズに空手道場「Matsumoto Karate Academy」を開く。現在、オーストラリア空手連盟ノース・クイーンズランド代表

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