流刑の島

ケアンズ風物記
放射状に設計された独房の中心点にこの丸 い穴の開いた石があった。覗き込むと、1 メートル程度の深さの溝になっていて、こ の溝は100メートル先の海にまで伸びてい た。これは当時の囚人用のトイレ。溝は潮 の干満を利用して設計されており、汚物は 潮に乗って海に運ばれる仕組みになってい る。トイレの囲いさえもない

ケアンズ風物記
南緯17度の太陽
其の117 松本主計

流刑の島



「オイ、コーヒー飲まンかエ」。すぐ横で寝入っている妻に声をかけ た。妻は1度、モソッと動いたが、「いらン」。眠そうな声で、木で鼻 をくくったような返事を寄こして、寝返りをうった。

レストランで食事をし、宿に戻ったの が午後8時ごろ。シャワーを浴び、ホンの チョットの間のつもりでベッドに横になっ たら、そのまま寝入ってしまっていた。目 が覚めたら午前2時半過ぎ。私は通常12時 前に寝て、6時過ぎに起きるから、私の睡 眠時間は十分取っている訳になる。
眠気がスッカリとれてしまっていた。お 茶でも飲もうか、と思ったが、1人では手 持ち無沙汰になる。ヨシ、妻を付き合わせ てやれ、と彼女をつついたが、アッサリ断 られてしまった。付き合いの悪い女だ、と 思ったが、まァ無理もないか。丑満つ時が 近いもンナァ。
それにしても、イヤに外が明るい。冴え た光がカーテン越しに差し込んでくる。ソ ウカ、今夜あたり、満月だったナァ、と 思った。
この島には鮮烈なほど美しい自然以外、 別に見物する所もないのだが、1カ所だけ 私の気に入った場所があった。1700年後 半に設置された監獄の廃墟である。盛期に は450人近い囚人が収容されていたそうだ から、かなりの規模なのだ。それでも地理 的条件の悪さとタスマニアのポート・アー サー監獄の設置により、1856年に閉鎖、 放棄される。その際、諸設備が異民族によ り再使用されることを懸念し、ほとんどを 破壊してしまっていた。その残骸が現在の 廃墟になる。島には1週間しかいなかった が、私は何度もその廃墟を訪ねていた。
ソウダ、今夜のような満月の明かりであ の廃墟の中に入ったら、何とも無気味で、 当時の模様が感覚的に実感できるかもしれ ない。私はお化けはあまり好きではない。 1人では行きづらい。気が小さいのだ。
オイオイ、とまた妻をつついた。「監獄 までドライブに行こう」。妻は一瞬息を詰 めたようだったが、「今何時だと思ってる んだヨ。1人で勝手に行きさらせ」。また断 られたヨ。それにしても夜中の3時ごろにつ つき起こされて、その昔、80人以上の囚人 が処刑された監獄の廃墟見物に着き合う人 間はあまりいないだろう、と1人で納得。
ドライブには出ないまでもベッドを抜け 出し、外に出てみた。深みのある夜目にも濃い紺色の空を背景に、すぐ手を伸ばし たら届きそうなほどの無数の大きな星と、 日本刀の斬れ味を感じさせるような研ぎ澄 まされた月が浮んでいた。思わず見とれて いるうちに、室内の暖房で暖まっていた体 が、足元からゾクゾクと冷えてきた。9月の 終わりとはいえ、この島はまだ寒いのだ。
私は旅に出ても、余程のことがない限 り、ツアーという便利な見物方式を利用し ない。だいたい大人数でゾロゾロ歩くのは 好きではないし、特に時間に制限される、 というのが気に入らない。旅というもの は、元来自由であったはずだと思う。時間 に捕らわれずに好きな場所には時間をか け、腹が減ったら食事をし、太陽が落ちた 町で宿を探す。この気持ちの自由さが旅の 醍醐味でもあり、また贅沢でもあろう
。 この島の監獄の廃墟は、宿からすぐ近く だったので、よく足を運んだ。もう少し監 獄の歴史的背景と当時の様子を知りたいと 思った。それには私の敬遠するツアーが 手っ取り早かった。
「もしお前様方が、この独房に3週間、 真っ暗闇の中に押し込められたとしたら、 どうなると思いますエ」。監獄の周囲の高 い砂岩の壁は、今もそのまま残っている。 内部の独房や見張りの兵士たちの兵舎は、 ほとんど残っていないのだが、それらの土 台はハッキリと識別できた。独房は兵士の 番所を中心に放射状に設けられており、こ の形式は、当時の豪州の監獄では、画期的 なデザインではなかったろうか。私は豪州 のどこかで全く同じデザインの監獄を見た が、あまりたくさんの監獄を見て回ったの で、どこであったのか、思い出せない。
反抗的で凶暴な囚人は、処罰用の独房に 特別に移される。ガイドが連れて行ってく れたその独房は、放射状独房の外側にあっ た。土台から見て独房の広さは1メートル× 2メートル程度。1頭の馬を入れると、向き を変えさせることもできない広さである。
この暗闇3週間の刑罰を終えた囚人は、 神経に異状を来たすか、借りてきた猫のように大人しくなるそうだ。
「狂っちまわない方法が、1つだけあるン ですヨ。囚人たちがもう本能的に、生き残る道を暗闇の中に見たんでしょうネェ」
独房に押し込められると、まず手探りで 石造りの床から、手に触れるゴミを1カ所 に集める。小石が見つかれば最高。何か固 い、小さな固形のゴミを探す。その小石大 のゴミを闇に投げ、落ちた音を頼りに手探 りで探す。見つかったら、また繰り返す。 1日1度の食事時と寝ている時以外、3週間 も繰り返す。
つまり、自分の意識をほかの対象物に向 け集中することにより、自己の意識の崩壊 を食い止めているのだ。これが唯一、正常 な状態で3週間後、暗闇の中から出て来る方 法なンですヨ、とガイドは締めくくった。
この島の名前、ノーフォーク島。NZと ニューカレドニアのちょうど中間点に位置 する。ブリスベンから1時間40分。豪州に 属しながらも半独立的な自給自足体制を持 ち、入島にはパスポートが必要。
クックが2度目の航海で豪州に戻って来 た時に発見。当時の公爵の名前を取って、 ノーフォーク、と名付けたそうだ。クック が本国に送った報告書の中に、この島に は船のマストに最適のストレートなパイン と、帆布などを作る材料のフラックスが豊 富、とあったという。フラックスと言え ば、植物の亜麻。繊維性の浜木綿によく似 た1メートル程度の植物で、島を歩くと、 アチコチに見つかった。
1788年の最初の入島以来、当てにして いたパインの木は弱くてすぐに折れ、フ ラックスからも良い繊維は取れなかった。 これ以後この島は、囚人の流刑地として使 用されることになる。1794年には島の人 口1,149人、内囚人443人、とあるからし て、その開拓の進歩が想像できる。最終的 には1856年に完全に放棄されるのだが、 半世紀にもわたって開拓した島。人々はど んな思いを残して去っていったのだろう。 ガイド・ツアーに参加した人々は、私たち が何人なのか噂していたのだそうだ。ツ アーのメンバーはよく栄養の行き渡った定 年後の人々がほとんどだった。ナンダ、年 寄りばかりじゃネェか、と妻に言ったら、 お前さんもそうだヨ、と他人事のような顔 をした。
それにしても、私しゃ垂れ目の三度笠。 1942年モデルだから、新しいモデルと比 較して、胴は少し長く、足はやや短い。典 型的真珠湾攻撃期の日本人姿なのに分から ないのかナァ、と思ったが、まァそれだけ こんな島は日本人好みの旅行地ではない、 のだろう。
店のレセプションの女の子に話したら、 彼女が働いてわずか1年余りだけど、ただの 1人も日本人客を見たことがないそうだ。
日本人旅行者のように、限られた時間で数 多くの場所を巡り、サービスの良さに慣れっ こになっている人種は、この島のように自然 と監獄の廃墟以外、何もないという所にポン と置かれたら、何をしていいのか分からない のではないか。平和ボケして自分で自分の面 倒を見れない人間が多いことだ。
島にいる間、毎日ブッシュの中を歩き 回った。緑の牧草地と群青の海に映える ノーフォーク・パイン。上陸地が見つから ないほど、島を取り巻く切り立った海岸 線。島には蛇がいないのでニワトリがアチ コチに野生化し、人里離れたブッシュの 中で、ヒヨコを連れた親ドリをよく見かけ た。
町中のカフェでビールを飲んだ。飲み過 ぎないよう給仕の女の子に尋ねたら、「こ このポリスは3人だけ。みんないい人で、 いくら飲んでもマッタク関係はないヨ。も う1本 ?」。そう言ってギャッと笑った。 そう言えばこの島のドライバー、シートベ ルトもしていないナァ。まるで30年前のケ アンズのようだ。それからはブッシュに入 るのにワインを持って出た。ツマミは何で もいい。1日中歩いて全く人1人にも会わな い見晴らしの良い丘の上で、ハムをかじり ワインを飲む。至福の時だ。
夕暮れがせまると車に戻る。気持ちよく ワインが効いているから、道に出てくる牛 とケンカしない様、用心してドライブす る。地元のドライバーは皆、必ず手を振っ て走り過ぎる。何やら人恋しい気持ちにな れる島なのだ。ヤレ、またあのパインの木 と青い空の下で、群青の海を見ながら、ボ ンヤリとワインを飲みたいものヨ。


まつもと・かずえ●
昭和17年2月1日生まれ。東京水産大学増殖学科卒業。1966年木曜島でPearls Pty Ltdに勤務。75年に退社。その後ケアンズに空手道場「Matsumoto Karate Academy」を開く。現在、オーストラリア空手連盟ノース・クイーンズランド代表

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