オーストラリアで今を生きる人 チョーカー和子さん

オーストラリアでを生きる人

オーストラリアの日系コミュニティーで今を生きる、さまざまな人のライフスタイルを追うコラム。

チョーカー和子さん

夫と子どもが支えてくれた

オーストラリア生活42年

飛行機での海外渡航がまだ一般的ではなかった時代に船旅でオーストラリアへ。海の上で出会ったオーストラリア人男性と結ばれ、シドニーに移住した。日本人のオーストラリア観光ブームの最盛期に大手旅行会社の管理職として多忙な日々を過ごしながら、3人の娘を育てた。退職後、日本人定住者を中心とする団体「シドニー日本クラブ」(JCS)で奉仕活動に力を注ぐ傍、大学で陶芸の彫刻作品の制作に取り組んだ。昨年、JCSの会長を引退し、8人の孫に囲まれて幸せな毎日を送っている。(聞き手:守屋太郎)

 

——学生時代はどんな子どもでしたか?

東京・新宿で育ち、中学から杉並で過ごしました。引っ込み思案でにぎやかな方ではなかったけれども、はっきり物を言う子どもでした。英語は好きでした。父は英語、祖父もフランス語ができるなど、家庭環境も比較的外国語が身近でしたから、海外にも興味がありました。

大学に進学したかったのですが、父が経営していた会社が傾いてしまったんです。私は自分で学費を稼いで大学に行きたかったのですが、父は古い人でしたから「女がアルバイトしながら大学に行くものではない」と反対しました。結局、高校卒業後はトヨタ自動車販売に就職して、輸出部に約5年勤めました。

 

——オーストラリアとの接点は?

たまたま車を海外に運ぶ船会社が、船上パーティーに私たちを招待してくれました。その時、船会社の社長さんが「これからの若い人は外国を見ないといけない」とおっしゃったのがきっかけで、海外旅行をしてみたいと思うようになりました。社長さんも船賃を半額にしてくれると言ってくれたのです。

ところが、長い休暇は取れないので、旅に行くには会社を辞めなければいけませんでした。どうしたものかと思案していたところ、先輩が「結婚退職ということにすればいい」と助言してくれました。結婚の予定などなかったのですが(笑)。

1968年のことでした。貨物と旅客を乗せて日豪を往復する「貨客船」に乗り込みました。優雅な船旅を満喫しながらアジア各国を周遊し、オーストラリアにやってきたのです。船がブリスベン川を上がっていくと、緑の牧場に煙突のある赤い屋根の家が見えてきて、「夢の国みたいだ」と思ったのを鮮明に覚えています。

ブリスベン、シドニー、メルボルンを船で周り、日本に帰りました。各地でトヨタの現地代理店の人が面倒を見てくれ、とても良い旅になりました。その時、シドニーから船に乗ってきたのが、今の夫のイアンだったのです。

 

——船の上で生涯の伴侶に出会うなんて、とてもロマンチックですね。

60年代の終わりごろ、バックパック1個で世界を見て回る貧乏旅行が流行っていました。イアンも日本経由でシベリア鉄道に乗って世界を一周しようと計画していたのですが、結局、日本にとどまり、私たちは結婚しました。その後、私はトヨタの販売会社で女性初の営業職に就き、イアンは英語教師になりました。日本での5年間の結婚生活の間に長女と次女が生まれました。


旅行会社で仕事をしていた時代に娘さんと

73年、ちょうどオイル・ショックの年にイアンの地元シドニーに移り住むことになりました。すぐに3人目の娘が生まれ、慣れない海外生活を苦労と感じる暇もなかったですね。

私が最初にした仕事は通訳でした。イアンとは日本語で話すので英語がそれほどできたわけではないのですが、マグロ漁船の現地代理店が船とのコミュニケーションを取るのに困っていたところ、私が日本人であることを知り、仕事を頼んできたのです。一番下の娘は1歳でしたから、子育てをしながら、船が着いたらタクシーをチャーターして港へ行き、船会社とマグロ船の通訳の仕事をしました。船員さんがよくキングス・クロス(シドニー市内の歓楽街)で酔っ払ってトラブルになり、夜中に警察署まで飛んで行ったものです(笑)。

 

——それから旅行業界で長年活躍されるわけですが、マグロ漁船の通訳が原点というのは面白いですね。

ガイドを約3年した後、日本人向けインバウンド(現地手配)部門ができたトーマス・クック(英国系の旅行業大手)に入社しました。そのころもまだ日本人観光客は少なかったのですが、80年代後半のバブル期から90年代にかけて日本ではオーストラリア観光がブームになり、日本人観光客は大変な勢いで増えていきました。

最盛期はシドニーのインバウンド部門に50〜60人のスタッフがいて、約100人のガイドを動かしていました。視察旅行や団体、パッケージ・ツアーなど1日に何百人というツアー客を手配するのです。週7日間、早朝から夜中まで働くことも珍しくありませんでした。日本の会社ではありませんが、お客さんは日本人ですから、夜は接待もあり、急な要望にも「できません」とは言えません。例えば、夜中に急な予約が入れば、朝までに何が何でもバスなどを手配する必要があったのです。

 

——90年代に頂点を極めた日本人のオーストラリア観光ブームでしたが、その後急速に縮小していきました。

トーマス・クックも2001年にオーストラリアから撤退しました。22年間勤めた仕事が終わり、疲れ果てて朝から晩まで何もしない日々が続きました。これではダメだと思って、亡くなった元同僚が始めた会社の面倒を見た後、知り合いが誘ってくれたキャプテン・クック(地元のクルーズ会社)でさらに5年、勤務しました。

 

——ほとんど休む暇もない激務の中で、仕事と子育てをどうやって両立したのですか?

夫と3人の子どもが支えてくれたから、やってこられたのだと思います。私は家に帰ると家族のご飯を作らないといけないと考える古い人間なんです。でも、その一方で、女性だからといって家にいるのもおかしいとも思うのです。そんな私を理解してくれ、サポートしてくれた家族には本当に感謝しています。

 

——退職されてからボランティアに力を注がれたのはなぜでしょうか?

トーマス・クックが盆踊りなどの日豪交流イベントを手配していた関係で、JCSにはお世話になっていました。長年、仕事をさせてもらえたのは、現地の日系社会のバック・アップがあってこそ。その恩返しにと思い、退職後に頼まれたJCS事務局の仕事を引き受けました。

7年前から2014年にかけて、JCS会長を務めました。その間、日系コミュニティーの存在をもっとアピールする必要があると感じ、さまざまなコミュニティーとのコミュニケーションに力を入れました。JCSの理事、会員の皆さんと一緒に、現地校で日本語を勉強する学生たちに寿司の作り方を教えたり、ソーランのワークショップを開いたりしました。歌手・加藤登紀子さんのコンサートを企画したり、日野原重明さん(聖路加国際病院名誉院長)に講演してもらったりもしました。シドニーにおける日系社会の次世代を担う子どもたちに自分たちのヘリテージを知り自信を持って暮らして行ってもらうためには、親御さんたちへのメッセージが必須と考え、ウィロビー市(シドニー北部)から補助金を得て、「子どもを持つ親のために」というセミナーも開きました。

 

——退職してから大学にも通ったそうですね。現在は美術館でボランティアもしているとか。

もともと美術が好きでしたが、10年以上前にアーターモン(シドニー北部)の陶芸教室で「これがしたかったんだ」とひらめいたのです。06年からは、ホーンズビー(シドニー北部)の職業専門学校(TAFE)の美術教室で陶芸を本格的に習い始めました。さらに、08年にシドニー大学の美術学部(SCA)に入学し、12年にオナーズ(優等課程)を卒業するまで4年間、勉強しました。

11年にはシドニー大学の交換留学生として米国ニューヨーク州のアルフレッド大学で6カ月間、学びました。1日20時間使える大学の工房で制作に没頭しました。周りに何もない町なので勉強しかすることがないのですが、すごく楽しかったです。私のような年齢のアジア人が大学で勉強していても、まったく特別扱いされなかったのも嬉しかったです。

私の作品は、一般的な陶器ではなくて、現代美術のスカルプチャー(彫刻)です。2つの文化の間で生きていることで感じるギャップを1つにしていくことを制作のテーマにしてきました。窯で焼く時、色が思うように出なかったり、壊れてしまったりと苦労も多いのですが、完成した時の充実感は格別です。特に、ハンター・バレー(NSW州東部のワイン産地)の彫刻展「スカルプチャー・イン・ザ・ビンヤード」に出展した作品をワイナリーの人が気に入り、購入してくれた時は嬉しかったですね。

また、昨年からはニュー・サウス・ウェールズ州立美術館で「コミュニティー・アンバサダー」も務めています。日本人や日本語を勉強している学生のグループなどに館内を案内する仕事です。ボランティアといっても館内にあるさまざまな展示品や芸術の知識がなければできないので、毎月、2週間ごとに美術館で行われるレクチャーを受けて勉強を続けています。

 

——これまでのオーストラリア生活を振り返って思うことは?

日本では、この歳になって大学に行くのはなかなか難しいでしょう。中学時代の友人には「そんなに勉強してどうするの」と言われました(笑)。でも、周りを気にせずに好きなことができるのがオーストラリアの1番良い所だと思います。最近になってTAFEの後輩2人が大学に入学しました。私のようにリタイアした人が、もう1回勉強したいと思うのは良いことですし、HSC(NSW州の大学入学統一試験)の受験勉強をしている孫たちと、同じ目線で話ができるのも嬉しいことです。

オーストラリアでは日本と比べると女性が活躍できる場は多いです。自分の言いたいことを言い、したいことができる反面、その分責任も発生してきますが、それは当たり前ですものね。人生の大半をオーストラリアで過ごして思うことは、良い機会、良い人たちに巡り会い、良い人生を過ごさせてもらってとても幸せだということです。

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