
メルボルンはかつて世界一の金持ち都市となり「マーベラス・メルボルン」と呼ばれた栄華の時代があった。メルボルンを首都としたオーストラリア連邦政府ができる1901年までの50年間、メルボルンっ子はいかにして驚異のメルボルンを作り上げていったのか――。
第29回 オーバーランダー(大陸横断家)

メルボルン初期の移民には「オーバーランダー」(大陸横断家)と呼ばれる冒険家や事業家たちがいた。NSWなどから陸地を歩いて渡ってきた人たちで、ジョン・ガーディナーがオーバーランダーの代表として知られている。
アイルランド・ダブリン生まれのガーディナーは、22歳でバン・ディーメンズランド(現タスマニア)に移民し、『魔女の宅急便』のモデルと言われるロス市の郊外に300ヘクタールの大農園を所有していた。一方で、バン・ティーメンズランド銀行の役員を務めるなど経営者であり、大農業資本家でもあった。その後、シドニーに移民していたが、メルボルンの町がタスマニアからの不法移民により設立されたとのうわさを聞いて、1836年に300頭の羊を購入して、仲間数人と約1,000km離れた新天地メルボルンを目指した。
約4週間を費やしてようやくビクトリアに到着した。ガーディナーは、すぐにシドニーまで徒歩で戻り、今度は200頭の羊を率いて再度、メルボルンまで連れて帰った。ガーディナーは、メルボルン最大の牧畜家となり、リッチモンド、ホーソン、サウス・ヤラなどのメルボルン近郊のサバーブに広大な敷地を所有した。
放牧場としては、ヤラ川上流地域、ダンデノン丘陵などに6,000ヘクタールの土地を所有した。銀行家としてもユニオン銀行(現ANZ銀行)の役員を務めた。敬虔(けいけん)なクリスチャンとしても、セント・ミッチェル教会などを設立している。
ヤラ川の支川であるガーディナー・クリークや地名、駅名、道路名などにガーディナーの名前は、たくさん残されている。



メルボルン郊外のヤラ・バレーは、ビクトリアで一番有名なワイン産地として知られているが、ここもオーバーランダーが作った場所である。
ビクトリア州最古のワイナリーとして知られるヤラ・バレーのイェーリング・ステーションは、37年、イギリス・スコットランドからの移民であるライリー兄弟が250頭の牛を引き連れて、NSWモナロからヤラ・バレーのイェーリングに移民してきたことに始まる。
イェーリングとはアボリジニー語でその地区を指す名称である。NSWから持ってきたドイツ産白ワイン種苗木「ハンブルグの黒い房」を植えたのが、ヤラ・バレーにおけるワイナリーのスタートであった。ライリー兄弟が、皮肉を込めて使ったワインのブランド名、シャトー・イェーリング(Chateau Yering)がビクトリア州の最初のワインのブランドとなった。
61年にイェーリング・ステーションは、パリの国際ワイン大会で金賞を受賞し、オーストラリア及び南半球のワインがフランスで評価された初めてのワインとなった。

文・写真=イタさん(板屋雅博)
日豪プレスのジャーナリスト、フォトグラファー、駐日代表
東京の神田神保町で叶屋不動産(Web: kano-ya.biz)を経営