金鉱山の都市、バララット/マーベラス・メルボルン

 メルボルンはかつて世界一の金持ち都市となり「マーベラス・メルボルン」と呼ばれた栄華の時代があった。メルボルンを首都としたオーストラリア連邦政府ができる1901年までの50年間、メルボルンっ子はいかにして驚異のメルボルンを作り上げていったのか――。

第54回 金鉱山の都市、バララット

英国アルフレッド皇子や米作家M.トウェインも宿泊したクレイグ・ホテル
英国アルフレッド皇子や米作家M.トウェインも宿泊したクレイグ・ホテル

 バララット(Ballarat)はメルボルンの北105キロにあり、VIC州ではメルボルン、ジーロンに次ぎ第3の都市である。1837年、港町ジーロンからスコットランド移民の数家族が羊と共に放牧地を求めてやって来て、先住民アボリジニの言葉からバララットと名付けた。牛や羊の牧草地で人口100人ほどの静かな田舎町であったが、1851年8月2日、最初の金塊の発見がバララットから11キロ南部のバニヨンで報告され、数日後にはポバティ・ポイントでも金塊が発見された。わずか数週間で、数千人の金鉱夫が押し寄せて、バララットは金の町として豪州中に知られた。

 金発見効率は高く、1人最大150グラムもあった。一般労働者賃金の10倍近い収入であり、金鉱夫たちは大いに潤った。電話も電信もない時代だったが、ゴールド・ラッシュのニュースは世界に流れ、アイルランドや中国から多くの移民が押し寄せ、原野の川や丘にテント村が作られた。

 1851年はビクトリア植民地がニュー・サウス・ウェールズから独立した年で、多くの労働力が必要だったが、労働者に限らず成年男性の多くが金鉱山地区へ向かったために、メルボルンの建設が遅れるという現象も起きた。ゴールド・ラッシュによってバララットは、最盛期には6万人の単身男性の金鉱夫で溢れて経済は活況を呈し、ゴールデン・シティと呼ばれた。

バララット鉱山学校(現バララット大学)
バララット鉱山学校(現バララット大学)
美しい街の中心部にあるバララット・タウン・ホール
美しい街の中心部にあるバララット・タウン・ホール

 金鉱山に集まった外国人の中には、ロンドンやカリフォルニアから流れて来た民主活動家も混じっていた。1854年12月3日にオーストラリア駐在英国陸軍と金鉱山鉱夫との間で、衝突が起こり、オーストラリアの歴史上、最大の事件として知られるユーリカの反乱が起こった。同反乱後、ビクトリア植民地政府は画期的な判断を下した。金採掘ライセンスの廃止や、鉱夫権利法の制定、また安価な採掘税制度、鉱夫の投票権、土地所有権などが認められた。そのころ金は枯渇し始め、鉱夫たちは他の金鉱山の町へ移動。1859年には人口は約2万人に減り、鉱山会社は深度の深い地下金採掘を開始した。

 1862年にジーロン経由でメルボルンへの鉄道が敷設され、バララットは州の主要都市として、金鉱山の町から近代的な産業都市へと性格を変えていった。1870年に鉱山専門学校としては豪州最古のバララット鉱山学校が開校。初代学長には、メルボルン大学学長で、最高裁長官だったレイモンド・バリーが就任している。鉱山学校は後にバララット大学となったが、豪州の基幹産業である鉱山開発の中心人物を多数輩出した。

このコラムの著者(文・写真)

イタさん(板屋雅博)

イタさん(板屋雅博)

日豪プレスのジャーナリスト、フォトグラファー、駐日代表。東京の神田神保町で叶屋不動産(Web: kano-ya.biz)を経営。

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