No.51 ホバートに残る日本人水兵の墓碑(後)

タスマニア再発見
クイーンボロウ記念公園

タスマニア再発見
共同墓標

タスマニア再発見

No.51 ホバートに残る日本人水兵の墓碑(後)

文=千々岩健一郎

前月に続き、藤本氏による日本人水兵の墓地の探索のその後について伝えよう。

新しく移設されたコーネリアン・ベイの墓地での探索がうまくいかなかった藤本氏が、改めて市役所に赴きクイーンボロウ墓地のことについて調べたところ、その場所は現在、ハッチンズ高校になっていることが判明した。同氏の友人に偶然この高校の卒業生がいて、学生時代のおぼろげな記憶から何か墓標のようなものが残っていたことを聞いた。既に夕方近くの遅い時間になっていたが、藤本氏はさっそく現地に急行、薄暮の中でついに木谷水兵の名前を英語で記した共同墓標を発見するに至ったのである。

木谷水兵を含む18人の海軍関係者の墓碑が、コーネリアン・ベイへの移設の際に共同墓標としてまとめられ、残されていたのだ。静かなサンディ・ベイの住宅地の一角、ハッチンズ高校のスポーツ施設に挟まれた場所に、クイーンボロウ記念公園として旧墓地の石碑などを一部残して設けられた公園であった。

その後に発見された1902年5月15日付の古い新聞記事によれば、木谷3等水兵の盛大な葬儀が、日本海軍のしきたりで整斉粛々と行われ、1,000人近くの人々が参列して埋葬地まで行進を行ったことも判明した。終戦時の混乱の時代を乗り越え海軍に残されていた1枚の写真の事実が、94年の時を経て確認されたのである。英国譲りの記録保存の仕組みが生きているオーストラリアならでは、そして墓地の移設に際して、過去の墓標の保存に配慮し共同墓標として残したホバート市の対応についても感心させられる。

この発見を契機として、翌年、日本の南極観測船・砕氷艦「しらせ」がこの墓碑への献花を行うことを目的に、初めてタスマニアに立ち寄ることになった。1997年3月19日午前8時30分、4カ月間の南極での補給活動を終えた「しらせ」がホバートのマッコーリー埠頭に着岸、同日午後2時から故木谷水兵への献花式を遂行した。艦側から帖佐艦長以下6人の士官、オーストラリアからホバート市長ほか、豪州軍関係者、日本人関係者として藤本氏、メルボルンの駐在武官、日本人クラブのメンバーなど総勢21人が参集し、献花と黙祷を行い、95年間この異国の地で眠り続けている木谷水兵の魂に対する慰霊の式を行った。

最後に、前号から続く今回の内容について、財団法人水交会の機関紙「水交」(平成8年6月号)に掲載された八廣良太氏(元タスマニア在住海軍出身者)の記事を参考にさせていただいたことを申し添えたい。


タスマニア再発見

 

千々岩 健一郎 プロフィル

タスマニア在住21年。1995年より旅行サービス会社AJPRの代表として、タスマニアを日本語で案内する同社の運営を行なうとともに、ネイチャー・ガイドとして活躍。特に植物関係の造詣が深く、その専門知識をもとに各種の自然観察ツアーやメディアのコーディネートなどを手がけている。北海道大学農学部出身。

新着記事

新着記事をもっと見る

新着イベント情報

新着イベントをもっと見る