No.49「謎の異国船」とクラレンス

タスマニア再発見
過去の交流写真展の様子

タスマニア再発見

No.49「謎の異国船」とクラレンス

文=千々岩健一郎

クラレンスは、ダーウェントの川を挟んでホバートの対岸にある市だ。この市が、北海道釧路の近くにある厚岸町と姉妹都市提携を結んでから今年でちょうど30周年となる。これを祝してクラレンスを訪れる予定であった使節団の訪問が東日本大震災の影響で延期になったため、改めて今年の11月に計画が検討されている。今回は、この日本とオーストラリアのそれぞれ南北に離れた小さな町が姉妹都市となった経緯についてお話しよう。

「嘉永3年(1850年)4月16日、1隻の異国船が厚岸町近くの末広沖2里ほどで難破。乗組員は船を捨てて近くの島に上陸し、救助を待っていた様子である」という記述が、厚岸町の国泰寺の寺日誌に保存されていた。その後、乗組員は助けられ、調査の結果、船の名前はイーモント号、乗組員はイギリス人で「ニーホルラント内のホープルトトウン」からやって来たとされ、鯨を捕り南京へ交易に通う船のようであった。鎖国時代の当時のこと、乗組員総勢32人(内1人は死去)は長崎まで移送され、出島から出航するオランダ船に乗せられて日本を離れた。

このような記録に関心を寄せていったいどこから来た船であったのかという調査を行ったのが遠藤雅子さんという1人の女性であった。彼女は、この「ホープルトトウン」がタスマニアのホバートではないかということに気付いて、厚岸町から長崎、オーストラリアのキャンベラ、そしてタスマニアまで直接足を運び、古い文書を紐解いてこのイーモント号がまさしくタスマニア(当時のVan Diemen’s Land)から捕鯨のために出航した船であったということを突き止めたのである。

彼女はこの調査の一連の経過を、「謎の異国船:眠っていた日豪交流のルーツを求めて」という書物にまとめ1981年に出版した。そしてこの日豪関係史のほとんど最初のページを飾るであろう事実に基づいて、厚岸町とクラレンス市の姉妹都市提携が行われたのが1982年の2月であった。以降、毎年いずれかの市民代表団がそれぞれの市を訪ね、また子どもたちがホームステイで海外での生活を体験したりするというような交流が行われている。

最後に、出島を離れた31人の乗組員だが、遠藤女史の調査によれば、船長を含む3人だけがホバートに帰り着いたらしい。1850年2月2日の出航から、ほぼ1年が経過した翌年3月のことで、帰国後船長は、地元の新聞に遭難船イーモント号乗組員投獄記として一連の経過を掲載している。厚岸町での救難時に海に落ちて亡くなった1人は、長崎まで移送され、稲佐にある悟真寺の国際墓地に埋葬された。


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千々岩 健一郎 プロフィル

タスマニア在住21年。1995年より旅行サービス会社AJPRの代表として、タスマニアを日本語で案内する同社の運営を行なうとともに、ネイチャー・ガイドとして活躍。特に植物関係の造詣が深く、その専門知識をもとに各種の自然観察ツアーやメディアのコーディネートなどを手がけている。北海道大学農学部出身。

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