仏縁をつなぎ、一隅を照らす―― 日系二世僧侶の生きる道/ウィルソン哲雄さん

タカ植松 一豪一会
第6回

仏縁をつなぎ、一隅を照らす
日系二世僧侶の生きる道

僧侶/浄土宗オーストラリア開教地主事
ウィルソン哲雄

 いわゆる「戦争花嫁」の子として生まれ、白豪主義がまだ色濃く残る時代に少年期を過ごした青年が、なぜ自らのもう1つの祖国・日本に傾倒、やがて仏教に帰依、その身を布教に捧げることになったのか──。戦後の日豪ハーフの第一世代として育ったウィルソン哲雄師の生き様は、日豪関係史の1つの側面を捉えるものとしても興味深い。2つの母国の間で生きる僧侶に話を聞いた。
(取材=9月10日、取材・文・写真=タカ植松)

PROFILE

ウィルソンてつゆうジェームス

ウィルソンてつゆうジェームス
ブリスベン出身。UQ卒業後、教師となり、日本語を教えるために渡った京都で仏教に出合う。佛教大学卒業後、2001年に得度、04年ブリスベンに阿弥陀寺を開山、住職となり今に至る。06年以降、ライフワークとしてQLD州極北部の木曜島日本人墓地での盆法要を続けてきたことが評価され、20年に外務省在外公館長表彰受賞

PROFILE

タカ植松(植松久隆)
ライター、コラムニスト。本誌特約記者。知れば知るほど、多種多様な人材に恵まれた日系社会。読者の「こんな人がいたんだ」の声が励みになる。まだ見ぬ隠れた人材との出会いを楽しみにしたい

阿弥陀寺を訪れる

 ブリスベンのインナー・ウエスト、伝統的に英国系エスタブリッシュ層が多く暮らすエリアの閑静な住宅街に、その寺院はある。何も知らなければ通り過ぎてしまいそうな外見は、一般住宅と大差ない。そのベランダに続く階段を上がって行くと「そっちは非常口。こっち、こっち」と呼ぶ声が聞こえた。ウィルソン哲雄和尚だ。

 哲雄師は、墨蹟(ぼくせき)鮮やかな「光栄山阿弥陀寺」の表札の脇に立ち、「ようこそ」といつもの慈愛に満ちた表情で招き入れてくれた。「光栄山」の山号は、近郊のマウント・グローリアスに因み、「浄土院」の院号と寺号も阿弥陀如来を本尊に奉じる浄土宗寺院にふさわしい名前を自ら選んだという。

慈愛に満ちたその表情と落ち着いた語り口は、人びとに安心感を与える
慈愛に満ちたその表情と落ち着いた語り口は、人びとに安心感を与える

 靴を脱ぎ、浄土宗の5つある海外開教区/開教地の1つの「豪州開教地」、その本拠地たる阿弥陀寺に足を踏み入れた。寺院内は別世界だ。静謐(せいひつ)に包まれた紛れもない寺院ならではの佇まいに、自然と背筋が伸びる。

 「隣が僕の生家で現在の住まい。ここは、僧侶になるなんて思ってなかったころ、母から『ジミー、隣の家が売りに出たから買いなさいよ』と言われるがままに買った家。しばらくはレントに出していたけど、まさかこんな風にお寺になるなんて、全く想像してなかったね(笑)」

 金色の阿弥陀如来立像が祀(まつ)られた祭壇の前の書見台を挟み、面と向かい端座してのインタビューが始まる。公的な場やイベントで顔を合わせる哲雄師はいつも法衣姿だが、この日は漆黒の作務衣姿が春を忘れて夏到来のような陽気にも涼やかな印象だ。

「木曜島」での法要がライフワークに

木曜島での法要はライフワークとして体が動く限りは続けていく(写真=本人提供)
木曜島での法要はライフワークとして体が動く限りは続けていく(写真=本人提供)

 哲雄師と最初に言葉を交わしたのは、今から7年前。それまでは阿弥陀寺の存在を耳に挟む程度だったが、縁あって面識を得たのは豪州に暮らす日本人にとって非常に大きな意味を持つカウラの地だった。

 2014年8月、先の大戦中の旧日本軍将兵捕虜によるカウラ蜂起の70周年慰霊式典に参列した折、並み居る仏教や神道系の宗教者の中の少し顔つきの異なる僧侶に目が留まった。式典後に話し掛けると、共にブリスベンから来ただけでなく、共通の知人も多くいることが分かって話が弾んだ。

 カウラと同様に師が大事にしてきたのが、QLD州極北部の木曜島だ。

 「コロナ禍の前は、毎年8月5日はカウラの慰霊式典で読経、ブリスベンでお盆の法要をすませて、15日にはQLD州の北の外れにある木曜島の日本人墓地でお盆の法要を執り行うのが、毎年のルーティンで8月はとても忙しかったのだけど……」

 自らのライフワークでもある木曜島での法要は、戦前に現地で潜水夫として働いた日本人の末裔である現地日系コミュニティーや、地方自治体、更には日本の領事館関係者などとのさまざまな連絡調整を、06年以来自らの手で行ってきた。

 「たった3人の参列で始まった木曜島(での法要)は、今や地域の大事な年中行事。年々関心が高まり、日系の血を引く島の人びとが自分たちの子どもを連れてくるような光景を多く目にしてきました。

 彼らに、私が日本の風習や文化などを話すことで、日系人としての『アイデンティティー』を改めて感じ、見つめ直すきっかけを与えられているのは、仏教者として『一隅を照らす』機会を得ていることであり、とてもやりがいを感じます」

 木曜島では、長年風雨に晒され傷んだ日本人墓地の墓石の修繕事業も行ってきた。それらの活動が評価されたことで、哲雄師は昨年度の在外公館長表彰を受けた。長年の木曜島での献身は公式に認められ、末永く顕彰されることになった。

今年6月の在外公館長表彰式典で、妻の陽子さん、2人の息子たちと(写真=本人提供)
今年6月の在外公館長表彰式典で、妻の陽子さん、2人の息子たちと(写真=本人提供)

戦争花嫁の子として育ち

 哲雄師のこれまでの軌跡を振り返る時、彼自身の出自と、その人生の節目で強い影響を与えてきた母、逸子さん(故人)のことに触れないわけにはいかない。

 日本3大軍港の1つとして名高い広島県呉市出身の逸子さんは、戦後に進駐してきた豪州軍人と恋に落ち、やがて所帯を持った。1952年、いまだ白豪主義が色濃く残る豪州国内に豪軍将兵の配偶者として特別に入国を認められたいわゆる「戦争花嫁」の1人だ。ジミー少年は、父と別離後、母と英国人の継父、弟の家族4人で、アッシュグローブの地で育った。

 さぞかし、かつての敵国の血を引く少年が過酷な経験をしたであろうと思いきや、「育ったのが比較的、社会的地位や教養が高い人が多く暮らす地域だったのもあって、そこまで露骨な差別はなかった」ときっぱり。「子どもは遊び相手であれば差別意識は希薄。むしろ、彼らの親ですね、そういう意識が強いのは。僕だけ誕生会に呼ばれないとか、学校以外では絶対一緒に遊ばせてもらえないなんてのはよくあった」と語るように、「日本人」が生きにくい時代だったことには違いない。

 「アンザック・デーは1歩も外に出ない。その日は家族だけで静かに過ごした。それと、母も家の内外で日本語を使うことはほとんどなかったし、僕らに話させようともしなかった。だから、僕らは日本語を喋れないままに育ちました」

 実際、彼と同世代の2世には、日本語ができない人が少なくない。その事実は、彼らが育ったのが、日本語をおおっ広げに話せるような時代ではなかったことの証左だ。

「御仏のお導き」のまま……

写真の写経以外にも墨絵、寺子屋といった教室で自ら教えている(写真=本人提供)
写真の写経以外にも墨絵、寺子屋といった教室で自ら教えている(写真=本人提供)

 そんな哲雄師が日本に興味を持ったのは、教師になるために大学で日本語を専攻してから。そこから、母の祖国、そして、自分のまだ見ぬ祖国への興味は加速度的に増した。日本への交換留学のチャンスに飛びついたのも、その滞在中に習い始めた墨絵を通して日本と日本文化の虜になるのも、いわば当然の流れだった。一旦は、豪州に帰国して教師になっても「またいつか日本へ」という思いは消えなかった。

 そして、後の人生に大きな影響を与えるチャンスが訪れる。

 「墨絵の先生の知人が教頭先生をしている学校で、英語教師の職を得ました。京都の浄土宗系の女子校で、学校には多くのお坊さんの先生がいた。同僚のある先生は、何とあの知恩院の娘さんでした」。知恩院、浄土宗の総本山にして開祖法然上人所縁の名刹(めいさつ)とのつながりは、まさに「仏縁」。

 そして、そこでも、逸子さんが重要な役割を果たす。

 「当時、母はしばしば京都に暮らす私の家を訪れては、3カ月の観光ビザ期限いっぱいの日本滞在を楽しんでいました。そんなある日、母と知恩院にお呼ばれした時、母は知恩院の和尚様に『何かお困りのことはないですか』と聞かれるままに、『ブリスベンにお寺があったれけど(筆者注:かつて市内ケンモアヒルズに浄土真宗寺院があり日本人僧侶がいた)、なくなったので困っています』と言い出したんです」

 知恩院のトップに伝えられた要望に、浄土宗は素早く動いた。調査のために2人の僧侶を派遣、豪州が開教地たり得るかを調査。一旦、「開教地は難しい」という決断になりかかったが、彼らは「英語ができる人材がいない、ビザもない」という障壁が問題にならない人材が1人だけ身近にいることに気付く――。

 「しばらくして、知恩院の住職に呼ばれて、『もし、私たちがオーストラリア人の誰かを僧侶になるよう教育したら、その彼が帰国後、布教活動をできるだろ』と言われて、自分のことだなんてつゆ知らずで『それは良い考えですね』と答えて、え、それって、もしかして……僕? そうしたら、住職はウンウンと頷いている(笑)」

 もはや、その流れは「御仏のお導き」としか思えない。その提案を受けた哲雄師は、熟考を重ねた上で仏門に入ることを決心する。

 しかし、いざ僧侶になると言っても、寺院の跡取りでもなく、ましてや外国育ちの身に修行は簡単なことではない。佛教大学に入学、仏教の教えを学び、複雑な作法なども完全に会得することを求められたが、言うまでもない、全て日本語、いや、お経はサンスクリット語でだ。五体投地の礼拝を200回繰り返す荒行では、痛みを乗り越え、幻覚を見ながらもやり遂げた。そのような辛い修行を全うして、「ウィルソン哲雄」として得度して、今がある。

「この世界の片隅」を照らして

 阿弥陀寺のあるブリスベンのコロナ禍の状況は、他州より比較的恵まれている状態が続く。とはいえ、コロナ禍の影響は人びとの暮らしの有り様に大きな影響を与え、阿弥陀寺を訪れる人びとのニーズや寺院でのお勤め自体にも大きな変化が出て久しい。

 これまでは帰国時に行っていた七五三や周忌の法事などをブリスベンにいながらにしてすませたいという人が増えた。法要や法事でも、家族が日本からオンラインで参列するのは、もはや当たり前。先日は、物故した親の葬儀に帰国できない家族が欧州からリモート参列という事例もあった。

 「僕はハイテクが苦手だけど、息子や周りの助けを借りて、この時代ならではの対応をしています。コロナ禍以前では全く想像してなかったれけど、バーチャルながらも人びとが仏事に参加できるようになったのは大きな変化です」

 そんなコロナ禍でも、変わらないものは人のつながりだ。オフラインかオンラインかの違いはあっても、人は変わらずにつながっている。

 「人生とは、さまざまな人との“コネクション”の繰り返し。どんな人に出会い、何を学ぶかで、人生の“ディレクション”が変わっていく」と英語で語る言葉は、韻を踏み、心地良く響く。

 数年前、逸子さんの故郷・呉の戦時中を描いた『この世界の片隅で』というアニメ映画が話題になった。その主人公と同じ世代の逸子さんが、戦中戦後の激動を乗り越えて渡った異国の地で産み育てた息子は、今、ブリスベンで仏教者として、この世界の片隅を照らし続けている。

**********

 哲雄師の含蓄のある話で、予定の倍の時間がまたたく間に過ぎた。後ろ髪を引かれる思いで阿弥陀寺を退出してから見上げた空は、抜けるように青かった。心と体が何だか軽くなった気がした。また、来たい――そんな気持ちになった。

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