豪州の構造改革と 「アコード」

政局展望

豪州の構造改革と「アコード」

ナオキ・マツモト・コンサルタンシー:松本直樹

5月31日は「アコード」(Accords)、すなわち「物価・所得合意」が初めて締結されてから30周年の記念日に当たる。豪州は1980年代より持続的な経済成長を達成してきたが、このアコードは、成長を可能にした構造改革の礎ともなった、極めて重要な取り決めであった。

ホーク労働党政権の誕生と経済危機

 1983年3月の連邦選挙では、そのわずか1カ月ほど前に党首に就任したばかりのボブ・ホーク率いる野党労働党が、フレイザー率いる保守連合政権に大勝を果たしている。ところが勝利を収めたものの、当時の豪州の経済状況は過去数十年の中でも最悪で、ホーク新政権の前には文字通り問題が山積していた。

例えば、高インフレ、高金利、高失業率、貿易赤字、大幅な財政赤字などの問題で、しかも労働党政権の誕生時のGDP、すなわちFY82/83のGDPは、過去30年ぶりにマイナス成長を記録するという、惨さんたん憺たる有り様であった。とりわけ深刻で、国民多数の最大の関心事でもあったのが、83年6月の時点で10. 3%と、30年代以降では最悪で、しかも製造業を直撃した失業率の高さであった。これによって社会不安が募ったばかりか、労使間の紛争も激化したのである。

こういった経済状況の背景には、世界経済が依然として景気の後退局面にあったこと、あるいは歴史的とも言える干ばつが国内を襲っていたなど、確かに外因や自然要因もあった。ただ、数多くの国内経済要因が存在したことも紛れもない事実で、ホーク政権の誕生時は、そのことが広範に認識され始めた時期でもあった。

具体的な問題点とは、製造業部門の国際競争力の低さ、世界貿易に占める豪州のシェアの低さ、投資水準の低さ、金融部門や資本部門の効率の悪さ、といったものであった。そこで「社会主義政党」であるにもかかわらず、ホーク労働党政権は、以上のような国内の問題点を明確に認識した上で、国内経済の活性化のためには、自由化や規制緩和、行政や財政の構造改革が不可欠との結論に達している。

その第1歩としてホークが実施したのが、必要な改革に関し広く意見を聞くため、また、それ以上に重要な点として、各層に改革の当事者であることを認識させるために、各層の指導者を集めた大規模な経済サミットを開催したことであった。そしてホーク政権は、サミットでの討議内容、結論を踏まえた上で、それ以降、①変動相場制への移行、②歳出閣僚委員会の設置、③連邦省庁の統廃合、④コモンウェルス銀行(CBA)やカンタス航空に代表される国有企業の民営化、⑤輸入関税の単独的低減、⑥通信や電力、ガス事業部門などを最優先にした競争促進政策の推進、などの重大政策を矢継ぎ早に断行している。

こういったミクロ経済改革などは、96年3月に誕生し、もともと「安価な政府」を標榜するハワード保守連合政権にも継承されたが(注:労使分野に代表されるように、経済改革の「スピードと程度」は保守連合政権の下でより強まったが)、ホークおよびキーティング労働政権の行政/財政改革、ミクロ経済改革のおかげで、近年の豪州は長期的、持続的な経済成長を達成しているし、また97年のアジア通貨危機や、2008年の世界金融危機(GFC)なども、他国が羨むほどに上手く乗り切っている。

ところで、労働党政権が断行した構造改革は、少なくとも一時的には国民の痛みを伴うものである。ではなぜに豪州では、痛みを伴う行政/財政改革などが比較的スムーズに実現したかであるが、最も重要な理由は、改革を主導した指導層の能力にあった。とりわけ、根回し上手のホーク、明確な政策ビジョンと実行力を備えたキーティング、そして、少なくとも第2次世界大戦後の豪州では最高のユニオニストと評される、豪州労働組合評議会(ACTU)書記長のケルティーの存在に負うところが大で、この内の誰が欠けていても、80年代から90年代にかけての、これほどの構造改革は実現できなかったと言える。

強制仲裁制度と「アコード」

さて、本題であるアコードとは、この労働党政府と労働組合との協調関係の証左、あるいは協調のシンボルとも言える重大取り決めであった。アコードとは、賃金の引き上げなどに関する、労働党政府とACTUとの間の合意事項、すなわち、連邦労使機関の豪州労使関係委員会(AIRC)が開催する、いわゆる「全国賃金ケース」公聴会での、賃上げなどに関する労働党政府および労働組合の統一意見、提言を意味するものである。

アコードの説明を進める前に、まず豪州の労使制度の特徴を見てみよう。 20世紀初頭に連邦各州において、また連邦においては、1904年施行の「連邦調停・仲裁法」に基づき連邦調停・仲裁裁判所が設置されて以降、近年に至るまで、豪州ではほかの先進国に比し、労使交渉ではかなり高い頻度で公的機関による「仲裁」システムが使用されることとなった。

この仲裁システムを中核とする労使制度は、1891年に労働者によって結成された労働党が、労働者寄りの立法・政策を推進するための要と位置付けるものであった。労働者側としては、労使間のパワー・バランスが大きく雇用者側に傾いていた当時の状況下においては、雇用者を強制的に労使交渉の場に引き出し、かつ対等な立場で交渉するためには、中立的な連邦機関の介入を制度化する必要があったのである。

豪州調停・仲裁制度の歴史的役割、功罪については、①強制仲裁制度への強い依拠が、労使の「Them vs Us」意識を醸成し、労使間の対立を強めた、②登録団体の労働組合に過剰な特典、パワーが与えられてきた、そして③経済的に非合理、などの批判がある。

一方で、強制仲裁制度の貢献としては、同制度が、豪州全体に驚くほど均一な賃金水準をもたらしてきたことが指摘できる。

連邦仲裁機関は特定労使紛争を「全国賃金ケース」として取り上げ、該当する労使、政府やACTU、ビジネス界からの意見を勘案した上で、賃上げ幅の決定を行ってきたが、これは連邦ばかりか州の各種「裁定」、すなわち調停・仲裁制度下での交渉で決定された、広範にわたる労働条件を文書化したものの基準ともなった。

またさまざまな職種間で当然生ずる賃金格差は、「比較賃金公正」の原則に基づき、極小化する方向で決定が下された。さらに、労使間交渉の直接の当事者であり、特定の裁定が適用される労働組合は、豪州では労働者の職業、職種、あるいは労働者の所属する産業ごとに構成されていたため、同一職種、産業内の賃金・労働条件が平準化された。

以上のようなメカニズムによって、賃金水準などの「フロー・オン」、すなわち均一化が達成され、社会的平等、社会的公正の実現という観点から見た場合、強制仲裁制度の果たしてきた歴史的役割が大であったことは否定できない。

一方で、強制仲裁制度に対しては、上記③のような強い批判もあった。そもそも仲裁制度の下で達成された均一的な賃金・労働条件とは、かなり高いレベルのものである。これは優勢な労働組合の獲得した裁定内容が、上述した「平準化のメカニズム」を通じて全産業に拡散していくからであり、このことは労働コストの上昇を意味する故に、豪州産業の国際競争力を相対的に低下させる要因の1つともなった。

さらに、賃金・労働条件が特定職種ごと、産業ごとに決定されるということは、同職種に所属する産業、あるいは同産業に所属する各企業の特殊事情、例えば産業、企業の業績、生産性などに無関係に賃金・労働条件が一律に決定されることを意味する。その結果、設定された一律賃金が、経済的合理性の観点から見た特定産業、企業の賃金水準を超える場合、当該産業、企業は政府の補助・保護政策、例えば補助金、関税に依存せざるを得ず、事実、豪州政府はさまざまな助成・保護措置を講じてきた。これが労使双方の生産性向上インセンティブを阻害し、斜陽・衰退産業、企業の存続を許してきたばかりか、労働者の社会的上昇意欲をも削いできたことは明らかであろう。

こうして近年に至り、従来の資源輸出依存型から製品輸出型経済への脱皮が声高に叫ばれ、また経済のボーダレス化、グローバル化の状況が現出して、豪州産業の国際競争力の向上が至上命題となってくると、このような硬直的、集権的制度が不可避的に持つ「経済的非合理性」の問題が、大きくクローズアップされるようになったのである。

ただし、仲裁制度の瑕疵が労働党内でも明確に認識され、以上のような労働条件の中央決定方式、「ドンブリ勘定方式」から、より分散的な交渉方式、具体的には、「企業別交渉」制度が交渉の主流方式として本格的に整備されたのは、キーティング労働党政権の「93年労使関係改革法」が施行されてからである。したがって、主としてホーク政権時代に大きく進んだ構造改革は、あくまで旧態依然とした強制仲裁制度下で行われたものである。

さて、上述したように、アコードとは、この「全国賃金ケース」に関して、労働党政府とACTUが合意した賃上げなどに関する提言に過ぎない。しかしながら、労使関係分野での2大プレイヤーの合意であるだけに、賃上げなどを決定するAIRCとしても当然無視はできず、結局AIRCの賃上げ率決定は、このアコードに沿ったものとなることがほとんどであった。

このため、83年のアコード導入以降のAIRCは、賃上げ決定に関しては単なる政府および労働組合の「ラバー・スタンプ」となり、賃金の中央決定方式下でのAIRCの役割は、著しく低下することとなったのである。その結果、「全国賃金ケース」を通じた賃上げ方式自体が、アコードと呼称されるようにもなった。なお、アコードを「物価・所得合意」とも称するのは、アコード制度下での賃上げ率が、6カ月ごとの消費者物価指数(CPI)に連動されていたからである。ただ、アコードは1つだけではなく、ホーク/キーティング政権時代に何度も改訂されている。

「アコード」の意義


ボブ・ホーク第23代豪州連邦首相

いずれにせよ、重要であったのは、ホーク政権の当初の最重要課題はインフレの抑制であり、そして同目標を受け入れたケルティーが、ホーク政権とACTUが合意したアコードを通じて、労働組合からの賃上げ要求を合理的な水準に留めることを確約したことであった。こういったケルティーの姿勢は、保護主義的な政策や目先の労働者の権利を最優先する、一般労組幹部の強い抵抗に遭遇したが、ケルティーの信念、すなわち雇用保障や労働者の権利増進の鍵は経済成長にあるとの信念、そしてケルティーの強力な指導力、説得力が功を奏し、労働界の抵抗も抑えられたのである。

その結果、ホーク政権は重要なインフレの抑制にも成功したばかりか、豪州産業競争力の向上、堅調な経済成長も実現したのである。このアコードがなければ、経済状況が悪化する中、労働組合が目先の賃上げ運動に走ったのは間違いなく、そのためホーク政権は出だしで躓いていた公算が高い。

しかもアコードの意義は、単なる労働条件問題に留まらない。というのも、アコードを通じて労組側は労働党政府のさまざまな政策決定過程に参画できたし、他方で政府は、労組を取り込むことによって、さまざまな政策分野での改革で労組の協力を得ることができたからだ。

また、アコード制度の「副産物」も極めて重要である。上述したように、アコードの主目的とは、経済を立て直すために、労組からの賃上げなどの要求を合理的な水準に留めることにあったが、ただ労組や労働者を宥なだめるためもあって、政府はその見返りに、福祉制度や税制などを通じて労働者の「セーフティー・ネット」を強化する、あるいは労働者の実質的所得の維持・向上を図ることを約束していた。

これを「社会的賃金」と称するが、その一環として導入されたのが、豪州国民の社会権/生存権を担保する4本柱の内の2本、すなわち、公的医療制度の中核である国民皆保険制度のメディケア制度と、ケルティーの強い要求、実行力で実現した、賃金・給与支払い額の一定率を、被雇用者ごとの退職年金基金に積み立てることを雇用者に義務付ける、私的な退職年金強制積み立て制度の導入であった(注:ほかの2本の柱は、労使機関が毎年決定する最低賃金制度と、受給年齢に達した国民に対して一律に支給される、公的な老齢年金制度)。

ただそのアコードも、90年代前半に労働条件交渉の分散化交渉の流れが本格化するにつれ、当然のことながら、その意義は急激に薄れていった。

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