ラッド前首相の政界引退

政局展望

 

ラッド前首相の政界引退

ナオキ・マツモト・コンサルタンシー:松本直樹

11月12日には、いよいよ第44回連邦議会がスタートしたが、翌13日、労働党のラッド前首相が政界から引退することを公表している。今回は、労働党党首としての、あるいは首相としてのラッドの功罪を総括してみるが、結論から言えば、やはり「罪」が「功」を相当に上回っていたと言わざるを得ない。

2007年11月選挙での勝利

2007年連邦選挙での労働党の勝利が、かなりの程度、ラッドのお蔭であったことは否定できない。確かに、当時の有権者の多くが、ハワード政権は「賞味期限」が切れたとの思いを抱いていたことも間違いない。11年8カ月もの長期政権、しかも同一人物が首相を続けていたのはさすがに長過ぎるとの思いが、多くの有権者の間に醸成されていたのである。要するに、「イッツ・タイム・シンドローム」(注:そろそろ政権の替え時とのムード)が発生したと言える。またハワード政府が06年3月より施行した、労使政策「ワークチョイス」への不安感や怒りもあった。

ただし、「イッツ・タイム・シンドローム」は、長期政権であれば自動的に発生するわけではなく、同時に政府を懲らしめたいとの有権者のムード、あるいは魅力的な野党の存在が必要となる。07年選挙ではとりわけ後者、すなわちラッドという、活力、ビジョンのある若手政治家、しかも明るく庶民的なイメージのリーダーが存在したことが、「シンドローム」を一挙に強化したものと考えられる。ラッドの存在なしには、同選挙での労働党の勝利も覚束なかった可能性が高く、労働党にとっては、これがラッドの最大の「功」であったと言える。

先住民への公式謝罪

ラッドが引退演説の中で、自身が誇りうる首相としての業績として真っ先に挙げたのが、08年2月の先住民への公式謝罪である。これはラッドが、いわゆる「略奪された子どもたち/世代」(Stolen Generations)に対して公式謝罪を行ったことであった。

「略奪された子どもたち/世代」とは、70年代まで続いた歴代政府の同化政策に基づき、強制的に親元から離され、宗教系の施設や白人家庭で育てられた、主として混血先住民の子どもたちを意味する。

そもそもこの言葉は、97年5月に公表された人権擁護・機会均等委員会の調査報告書のタイトルに由来するものだが、同問題が大きく世間の耳目を集めたのも、犠牲者の悲惨な経験を暴いた委員会報告書が公表されてからであった。委員会はその中で、当時の政府の施策を大量虐殺的な行為、あるいは人間性に対する犯罪といった、あたかも戦争犯罪人に使用するような激越な言葉で批判するとともに、政府に対し、先住民犠牲者への明瞭かつ公式の謝罪などを要求したのである。

ところが、大量虐殺的な行為といった、過激な言葉に反撥した当時のハワード保守連合政府は、過去の政府あるいは世代の行為に対して、現政府、世代が謝罪するのはお門違いなどと反論しつつ、委員会の提言内容をことごとく拒否したという経緯がある。

ハワード政府は、その後も頑なに謝罪を拒否してきたが、その理由としては、謝罪といった「シンボリック」な問題に拘泥(こうでい)するよりも、「実利」の問題、すなわち先住民の生活水準の向上こそが肝要かつ火急の用、との思いもあった。ただ、委員会の報告書が公表された直後には、大いにメディアや世間の注目を集め、また重要政治イシューとしても盛んに取り上げられた先住民への謝罪問題も、その後は長期にわたり特段話題に上ることもなかった。それどころか、2000年以降の先住民問題を巡る状況を特徴付けるのは、過去の先住民への仕打ちに対する政府の公式謝罪や、先住民と非先住民との「条約」の締結などを主張するシンボル重視派の凋落と、それとは対照的に、家庭内暴力や貧困、健康問題、犯罪などに苦しむ先住民の生活の改善こそが、最優先の課題であると主張する実利派の台頭であった。

ところが、07年選挙でラッド労働党政権が誕生すると、状況は一変している。すなわちラッドは、それまでの公約を遵守し、連邦議会において、「略奪された子どもたち/世代」の犠牲者に対し、連邦首相として、連邦政府を代表して、そして連邦議会に成り代わり、公式に謝罪(Sorry)を行ったのである。ラッド政府による明確な謝罪表明の背景には、先住民の生活水準の向上を目指した実利政策が重要とは言え、その推進のためには、やはりシンボル問題での進展が不可欠とのラッドの信念があった。ただ、確かに先住民問題への対応には、シンボルと実利という両輪が必要とは言え、ラッド政府の公式謝罪が、再度シンボル問題を必要以上に重視させる結果となったことも否めない。

世界金融危機(GFC)への対応

先住民への謝罪とならび、ラッドが首相としての実績として挙げるのが、世界金融危機(GFC)への対応である。08年9月に、米国政府が住宅専門金融機関2社への公的資金の投入を決定し、またリーマン・ブラザースの経営破綻という大事件が発生したわけだが、これを受けてラッド政府は、翌10月に、老齢年金受給者や家族手当て受給者などへの一時金給付を柱とする、総額104億ドルに上る国内景気刺激策を公表している。

政府の景気刺激策は、予算規模が相当に大きいなど、思い切ったものであったこと、また政策立案、そして公表も迅速であったことから、当時は各層から高い評価を受けた。さらにラッド政府は翌09年の2月に、大型の景気刺激策「第2波」を公表している。「第2波」は、向こう4カ年で総額420億ドルを投ずるという大規模なものであった。

豪州がほかの先進諸国に比べ、GFCを上手く乗り切ったことは間違いなく、ラッドが自画自賛するように、その一因が政府の可及的速やかで、かつ果敢な財政出動にあったことも間違いない。ただし、財政出動はあくまで成功の一因であったに過ぎず、ほかにも、①豪州準備銀行(RBA)による効果的な金融緩和政策を可能にした、当時の金利水準の高さ、②充実した金融制度および健全な銀行制度の存在、③中国やインドなど、アジア諸国への好調な輸出、そして④そもそも労働党政府の莫大な財政出動を可能にした要因、すなわち労働党政府が、旧保守政府から財政黒字や政府純債務高ゼロの状況を継承したこと、などといった、ほかの重要要因があった。

それどころか、景気刺激「第2波」は「オーバー・キル」であったばかりか、「第2波」に含まれた学校インフラの整備策や断熱材普及スキームでは、莫大な無駄遣い、浪費が行われたし、断熱材スキームでは、人身事故や多くの住宅火災までが発生している。この「オーバー・キル」により、その後の連邦財政は長期にわたって著しく悪化したのである。

ボート・ピープル政策の緩和

上述したように、ラッド自らが誇示する2つの「実績」ですら、比較的マイナーなものか、あるいは辛辣な批判の対象となったものに過ぎないが、他方で、ラッド本人、あるいはラッド政府の失策については枚挙に遑(いとま)がない。政策分野における最大の失策は、何と言っても08年8月に、ボート・ピープル政策を一挙に緩和したことであろう。

具体的には、それまで絶大な抑止効果を上げていた、ハワード保守政府導入の「パシフィック・ソリューション」を、ラッド政府が廃棄したことであった。その結果、密入国ボート・ピープルの数は激増し、今年の半ばごろには、政策変更以降に豪州に到着したボート・ピープルの数は、総計で5万人の大台に乗っている。確かに政策緩和の背景には、当時、豪州を目指すボート・ピープルが激減していたとの事情はあった。ただ、激減していた理由、あるいは政策緩和後に一転して激増した原因は、労働党政府が主張してきたような、ボート・ピープルを自国から押し出す「プッシュ要因」の有無、強弱によるものではなく、ボート・ピープルを豪州に惹き付ける「プル要因」の有無、強弱、すなわち豪州政府のボート・ピープル政策の内容にあった。この点でラッド労働党政府は大きな判断ミスを犯し、豪州の国益を大きく毀損したのである。

温室効果ガス排出権取引き制度の導入凍結


2010年4月、ラッド首相(当時・中央)は温室効果ガス排出権取引き制度(ETS)導入の凍結を発表。これを景気に既に翳りのあったラッド人気が一気に低落した

地球温暖化問題に関するラッドの10年4月の決定も、少なくとも労働党にとっては大失策であった。それは、温室効果ガス排出権取引き制度(ETS)の導入を凍結するというものであった。既に同決定の時点で、長期にわたる異例のラッド人気にもさすがに翳(かげ)りが見え始めていたが、ETSの凍結決定によって、ラッド人気は大きく低落し、しかも評価の低迷状況が「トレンド化」されたのである。

同決定は(注:この決定は、当時「4人組」の1人であったギラードの提言によるものとされるが)、これまでラッドが執拗かつ声高に主張してきた内容、例えば、「温暖化問題は我々の世代が直面する最大の倫理的挑戦」、といった説教調の発言と、真っ向から対立するものであった。そのため、ラッドには自身の政治信条、信念を実現するために徹底的に戦おうという根性がない、それどころか、そもそもラッドには信条、信念などが存在しない、とのパーセプションが、改めて強化されたのである。凍結決定によって、労働党のクレディビリティーも大きく低下することとなった。

資源超過利潤税の導入公表

当時のスワン財務大臣の責任が大きかったとは言え、ラッド政府が10年5月に突然公表した資源税、すなわち利潤に応じて課税される資源超過利潤税(RSPT)の導入策も同様な失策であった。このRSPTについては、当の政府も驚くほど資源業界が強く反発している。

その背景としては、資源業界には厳しいRSPTの中身もさることながら、そもそもラッド政府がいつものパターンで、関係各層への事前の根回しや交渉もせずに、しかも政治的要求を優先させて、重大な決定を場当たり的、短絡的に単独決定し、公表したことが指摘できる。また政府が、業界からの批判や反対に対抗するため、古くからの常套手段であるナショナリズム、「階級闘争」に訴えたこと、あるいは国民の嫉妬を煽るといった手段に訴えたことも、業界の怒りを高めたのである。

いずれにせよ、その後の資源税交渉にも不熱心で、しかも資源業界を悪玉扱いにするラッド政府の姿勢に強く反発した業界は、メディアを通じて強力な反政府、反資源税キャンペーンを展開している。資源業界は、財政が潤沢なだけに政府にとっては手強い相手で、また同問題では頼みの綱であった一般世論も、結局、政府に対して批判的となったのである。RSPT問題を巡る一件は、ラッド政府に甚大なダメージを与え、選挙を間近に控えた労働党の内部からは、ラッドのパフォーマンスに深刻な疑問が呈された。これが、「ラッド降ろしクーデター」を引き起す最後の「ひと押し」ともなった。

党内権力闘争

さらに言えば、10年6月以降の丸3年間にわたって、ラッドが労働党に与えたダメージも甚大であったと言わざるを得ない。10年6月と言えば、ショーテン現労働党党首などを首謀格とする「ラッド降ろしクーデター」で、ラッドが失脚し、ギラードが首相の座に就くという、青天の霹靂(へきれき)の政変劇が発生した月である。

ラッドが選挙勝利の最大の功労者で、また1期目の首相に過ぎなかったことを考えれば、同「クーデター」は正に驚天動地の話で、将来にわたって豪州政治史の中でも特筆に値するような、稀で、ラッドにとってはアンフェアなでき事であったと言える。その点では、ラッドには大いに同情の余地がある。

ただ、ギラード陣営が繰り返し主張してきたように、ラッドは「クーデター」で失脚した直後から、復讐とともに、リーダーへの返り咲きを虎視眈々と狙ってきた。ラッドの活動の中でも、労働党に与えたダメージが最も大きかったのは、ギラードの指導下で戦われた10年8月の連邦選挙のキャンペーン中に、ギラードに深刻なダメージを与える、ギラードの閣議での発言がメディアに漏洩(ろうえい)されたことであった。

ソースは間違いなくラッド陣営で、おそらくはラッド本人であったと見られている。漏洩事件が発生するまでの各種世論調査は、ギラード与党の優勢を示すものであっただけに、結果的に下院の状況が70年ぶりの「ハング・パーラメント」となったのも、ラッド(陣営)の「サボタージュ」のせいであったと言える。

結局、「クーデター」からちょうど3年が経過して、ついにラッドは初期の目的、復讐を遂げて首相に復帰したわけだが、その間の労働党は、あたかも「双頭政治」のような様相を呈し、ほぼ恒常的に党内求心力は脆弱な状況にあった。その結果、多くの有権者は、「党内を収めきれないような労働党に、国の統治などはとても無理」、との気持ちを抱くことになったのである。

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