オーストラリアの田舎で暮らせば㊽樹齢500年の巨木「ビッグ・スポッティ」を訪ねて

SHARE

 高さ約72メートル、樹齢500年以上のユーカリの巨木を取り巻く原生林の伐採が今にも始まるかもしれない、というニュースを耳にしたのは数カ月前のこと。ビッグ・スポッティ(Big Spotty)の愛称を持つその巨木に興味を持ったのは、私が暮らすサウス・コーストのどこかにあると知ったからだ。レオナルド・ダ・ヴィンチの時代から存在するというビッグ・スポッティをこの目で見てみたくなり、深い森を目指して出かけることにした。(文・写真:七井マリ)

オーストラリアの原生林の中へ

ビッグ・スポッティへと続く森の中を走る細道

 ビッグ・スポッティは、高くまっすぐ伸びるスポテッド・ガム(spotted gum)という種類のユーカリの木だ。ドローン撮影の映像で見ると、森から頭1つ分よりさらに飛び出した大樹だと分かる。72メートルというと大阪の「太陽の塔」よりもさらに高い。ビルでいえば20階建てほどの高さに相当する1本の木とはどんなものなのだろう。

 報道によると、ビッグ・スポッティがあるのは広大なノース・ブルーマン州有林(North Brooman State Forest)の原生林の中。シドニーからなら車で南へ約4時間の距離だが、地図に巨木の場所は載っていない。そこで、サウス・コーストで環境保護活動に取り組む人に、ビッグ・スポッティがある場所の正確な座標と安全な行き方を教えてもらった。Googleマップが示すルートは林業用の車両向けの悪路で参考にできないようだ。

 パートナーが運転する車で森に囲まれた高速道路をひたすら南下し、いくつかの町を過ぎ、未舗装の曲がりくねった道に入り、民家も電線もない深い森の日陰を進む。頼りになるのは途切れがちな電波とスマートフォンの地図、そして分かれ道のたびに現れる小さな標識だけ。土埃の立つ細い道は穴や段差が多く、道沿いには倒木がそのまま放置され、強風が吹けば大枝がいつ車に落ちてきてもおかしくない。慎重に進むうち、やがて地図上に入力しておいた座標が近付き、目印も何もない森の一隅で車を停めた。

 ここからは目的の場所まで徒歩となる。近くまでたどり着けたことに安堵しつつドアを開けると、木漏れ日が差し、乾いた土と木のにおいがして、高い樹冠から鳥の声がした。人工的な物も音も1つとしてない、手つかずの自然の中だった。

樹齢500年の大樹に触れる

全体を1枚の写真に収めることが難しいほど大きいビッグ・スポッティ

 この場所を教えてくれた人から、靴の消毒についても聞いていた。原生林に入る際は、無垢な生態系に外からの病原菌や植物の種などを持ち込まないことが鉄則だ。靴の汚れは事前に落としてきたが、仕上げに持参したアルコール消毒スプレーを靴の裏表にしっかり吹きかけた。ふと、オーストラリア入国時のバイオセキュリティーの厳格さを思い出す。入国カードが「土の付着した靴や物品を持っていないか」を問うのは、固有の自然や家畜を守るため。地域ごとの生態系の維持にも同じ努力が欠かせない。

 マダニ除けのスプレーもかけてから歩き出すと、そこは簡単に遭難してしまいそうな鬱蒼(うっそう)とした森の中。足元の悪い斜面を蛇行しながら下り、10分もたたずに座標のポイントが迫ってきた。視界に飛び込んできたのは、背の高いユーカリが多い中でも1本だけ別格だとひと目でわかる大樹。ビッグ・スポッティだ。

 その巨人のごとき存在感を前に、周囲の木々がマッチ棒のように頼りなく見えた。空に向かって伸びる幹を見上げれば、樹冠は目がくらむほど高く、双眼鏡なしでは枝葉の形を確認できないほどだ。土から生えた根元は太いというよりも、そびえる壁のようにどっしりと安定感のある大きさ。根の周りをぐるりと歩いてみると37歩にもなった。

 スポテッド・ガム特有のグレーの幹には、生きた象のイメージが湧く。薄いまだら模様となめらかな凹凸が特徴の幹を手で撫でるとひんやりと冷たく、その固さはこの大樹が生きている確かさとして手のひらに残った。

たくさんの命が宿る森

巨木を支える根元はどっしりと大きく壁のようだ

 ビッグ・スポッティを訪れた日は冬の後半で、周りの灌木に花が咲き始め、別の木ではミツスイと思しき鳥が子育て中だった。この森には他にもビッグ・スポッティほどではないにせよ太く高いユーカリが多く、希少なフクロモモンガの仲間の巣作りの場でもあるそうだ。大樹の根のそばにはウォンバットの糞があり、一帯が生息地であることを示していた。

 そのどれもが存在しないかのように、この州有林の伐採は計画されてしまったらしい。辛うじてビッグ・スポッティから半径60メートルのエリアなどは残されることになったものの、このままいくとかなりの面積が丸裸になる。

 草木は1つひとつ独立して見えても、実は互いを風雨から守り合い、地下では根に集まる微生物が土壌を生かす。森は切り分けることのできないひと続きの生態系であり、その営みの中にビッグ・スポッティは500年も前から立ち続けてきた。ユーカリの木々は、6万年超の歴史を持つオーストラリア先住民の文化とも分かちがたいつながりを持つと聞く。それでもひとたび森林伐採が始まれば、その全てを失うのは一瞬だろう。

 原生林を伐採する林業はオーストラリアの産業の1つとして長く続けられてきたが、生態系の側面から見ると持続可能ではないのが実情だ。伐採後に植樹が可能でも生育には年月がかかり、動植物の多様性や土壌は元に戻らない。原生林の消失はすぐに災害や獣害、CO2吸収量の減少となって人間社会に跳ね返ってくるので、遠くにいても他人事ではないのだ。

地図に載りきらない自然の価値

グレーがかった色をしているビッグ・スポッティの幹

 このエリアの伐採計画は既に承認されているが、誰もが賛成しているわけではない。限りある原生林を伐採する仕事の代わりに、ビッグ・スポッティを取り巻く自然を目玉にした観光業で地域に永続的に仕事を生み出そうと考える人たちもいる。日本の屋久島などの歴史が示すように、生態系を根こそぎ失わないための堅実な方法といえるだろう。

 この原生林やいくつかの国立公園を含む広大なエリアを、「ザ・グレート・サザン・フォレスト(The Great Southern Forest)」という保護区にしよう、という動きも存在する。それほどに重要な生態系なのだ。その案が現実になる前に伐採が進んでしまわないよう、地元の自然を愛する人たちが水際で食い止めようとしている。

 現状、地図にはビッグ・スポッティが立つ場所の記載はない。地図上になく、まだ広く認知されていないものがあるからといって、認知と価値の高さは同義でない。知識を得ることで見えてくる価値も、近付いて手を触れることで分かる価値もある。1つずつ知ることで、当地の自然の価値をいっそう理解していけたらと思っている。

著者

七井マリ
オーストラリア在住のエッセイスト。日本での子ども時代の教育体験から海外移住後の田舎暮らしまでを綴ったエッセイ本『高校に行かないと決めた14歳の日から』(文芸社)を2026年2月に上梓

SHARE
NSWの最新記事
関連記事一覧
Google Adsense