福島先生の人生日々勉強
施しは無上の善根(ぜんこん)である
「施し」について考えてみたいと思います。「施し」と聞くと、金銭的に困っている人に金品を差し出すといったイメージだけが先行しがちです。教会で募る寄付金もそうですし、仏教であれば、読経のお礼として寺院に差し上げるのも、「お布施」といって「施し」とされています。
「施し」とは、物でもお金でも、今それを必要としている人びとのために心を込めて捧げることです。しかし、どんなに美しく尊い心の持ち主であったとしても、自分にないものは捧げることができません。
ここに、物やお金でなくてもできる「施し」があります。日本では昔から、財力や智慧とは関係なく、誰もが自分自身の善根を磨くために努力し実践実行することとして、「無財の七施」を教えられてきました。言葉は知らなくとも覚えはあるのではないでしょうか。
一、「眼施」
慈しみの眼、優しい目付きで全てに接すること
二、「和顔施」
いつも和らかに、穏やかな顔付きで人に接すること
三、「愛語施」
優しい言葉を使うこと、ただし、叱る時は愛情の中にも厳しさが必要。思いやりのこもった言葉
四、「身施」
自分の体で奉仕すること、模範的な行動を身をもって実践すること、人の嫌がる仕事でも喜んで気持ち良く実行すること
五、「心施」
自分以外のもののために心を配り、心底から共に喜び、悲しむことができる、他人の痛みを自分の痛みとして感じ取れる
六、「壮座施」
座席を譲ること、すなわち、自分の敵のためにさえも、自分の地位を譲って悔いなしでいられる心
七、「房舎施」
雨や風をしのぐ所を与えること、自分は濡れてでも相手に雨の降り掛からないようにしてやること、思いやりの心を持って全ての行動をする
以上が「無財の七施」です。「施し」を、持てる者が持たざる者に対して「恵む」ことであると考えていると、他のために一生懸命尽くしても、「してやった」という気持ちが心の隅に残ってしまいます。これでは真の「施し」にはなりません。他のために尽くしても、役立つことができたとすらも考えようとしないのが本当の意味での「施し」です。でなければ、善は押しつけとなり、お節介となり、悪に転じてしまいます。「施し」を清らかな心で行えるよう、日々努めてまいりましょう。
このコラムの著者
教育専門家 福島 摂子
教育相談及び、海外帰国子女指導を主に手掛ける。1992年に来豪。社会に奉仕する創造的な人間を育てることを使命とした私塾『福島塾』を開き、シドニーを中心に指導を行う。2005年より拠点を日本へ移し、広く国内外の教育指導を行い、オーストラリア在住者への情報提供やカウンセリング指導も継続中。