メルボルンはかつて世界一の金持ち都市となり「マーベラス・メルボルン」と呼ばれた栄華の時代があった。メルボルンを首都としたオーストラリア連邦政府ができる1901年までの50年間、メルボルンっ子はいかにして驚異のメルボルンを作り上げていったのか――。
第43回 ビールの普及
メルボルンの人びとの暮らしにとって、ビールは欠かせないものであった。初代メルボルン市長ヘンリー・コンデルは、ビール醸造業者でありメルボルン中心部のリトル・コリンズ通りに醸造所(ブリュワリー)を作った。当時のビールは、英国やタスマニアからの輸入品で大変高価なものしかなく、コンデルのビールはかなり粗悪なビールであったが、飛ぶように売れ、財産を築いたコンデルは、市長となったのだ。
豪州で最も古い起源を持つカスケード・ビールは、デグレーブス兄弟が、タスマニアのホバートでカスケード・ビール会社を設立し、1832年にビールの製造を始めた。ホバート郊外の山の滝から新鮮な飲用水を引き、良質なホップを使用した最初の本格的なビールを造り出した。初期の時代には、大量のビールがタスマニアからメルボルンに持ち込まれた。英国からの超高価な輸入ビールか、劣悪な地元アルコールを飲むしかなかったが、カスケード・ビールがその状況を一変させた。
50年代に入るとメルボルンでも本格的にビールの製造が始まった。メルボルンで最も飲まれているビクトリア・ビターは、54年創業のビクトリア醸造所によって製造が開始された。52年にはモルトの製造も始まり、リッチモンド・モルティング工場は、豪州で最も古いビール用モルト製造工場である。まだ電気がない時代の56年に石炭ガスをエネルギー源として、メルボルンの発明家、ジェームズ・ハリソンが飲料用ビール冷蔵装置を開発した。ビクトリア・ビールやカールトン・ビールなどを冷えた状態で市内のパブに供給を開始した。日本が江戸末期の頃に、メルボルンでは冷えたビールが市内のパブで楽しめたのだ。
しかし夏の暑さの中で製造されるビールの品質は悪く、英国リバプールからの移民、エドワード・レイサムがカールトン醸造所を64年に建設したのが、メルボルンの本格的なドラフト・ビールの始まりであった。83年にビクトリア醸造所のベンディゴ工場で、豪州最初のラガー・ビールの製造に成功した。1800年代後半にビールの品質を劇的に改善する方法がアメリカで発明された。煮沸後の麦汁を酵母による発酵のために冷却する方法である。87年に最新の技術と設備を持ってフォスター兄弟がニューヨークからメルボルンにやってきて、ラガー・ビールであるフォスター・ビールの製造を開始した。
1900年頃には、多数のビール会社が安売りをしたために、各社の経営が極度に悪化した。01年にオーストラリア連邦が成立し、ビール製造法が施行され、粗悪なビールの製造が禁止された。その後カールトン、フォスターズ、ビクトリア、リッチモンドなどが、合併してカールトン&ユナイテッド社(CUB)が結成された。2019年にアサヒ・ビールは、CUB社の買収を発表している。豪州の1人当たりのビール消費量は世界で最も高いレベルであり、人口が増える中まだまだビールの歴史は続く。
文・写真=イタさん(板屋雅博)
日豪プレスのジャーナリスト、フォトグラファー、駐日代表
東京の神田神保町で叶屋不動産(Web: kano-ya.biz)を経営