出倉秀男の日本料理と歩んだ豪州滞在記
~オーストラリアでの日本食の変遷を辿る~
其の参拾七
産声を上げ始めた豪州産の日本食材
1980年後半は、シドニーや地方のテレビ局から、日本料理の紹介の依頼が増えたり、更には新たに日本料理の本の出版の話がいくつか舞い込んできました。
昨今は、YouTubeが大流行り。多種多様なテーマで、それぞれ得意な分野のHowtoものなどを画像を通して紹介するものが増え、その中には料理をテーマにしたものもたくさんあるようですね。当時、私がやってみたかったこと、それは自主制作でビデオを作り日本料理を紹介することでした。30年ほど前になり、画像を見ていただけるとお分かりですが、当時、私はまだ黒髪で、活動的だったので、自ら原稿を作成し、編集の手間を減らすため、カメラマンの方と一発勝負を行いました。
盛り付けられたお寿司も、当時の面影を残しています。チャレンジ精神は、今も、持ち続けています。そのうち、YouTubeにも投稿したいなと思っています。
そのころ、幕内さん(後に「豪酒」の代表となる方です)という方が、日本郵船を退職された後、「寿司清(せい)」というお店をシドニーでオープンしました。寿司への関心が一層高まる中、本格的な江戸前の寿司を提供するレストランとして注目されました。
その後しばらくして、Sake(酒)の生産が、初めて本格的にオーストラリアで始まり、オーストラリア産の日本酒「豪酒」がシドニー西郊ペンリスで日本の小西酒造からの技術提携という形で始まりました。幕内さんは、その初代代表として、立ち上げに大いに貢献されました。「豪酒」は、酒造会社、サン·マサムネの看板商品として、オーストラリア産の酒として現在も提供されています。
この時期、ゆっくりと、しかし確実に、日本の食材がオーストラリア国内でも生産が始まりました。オーストラリア産Wagyuと呼ばれる牛肉の開発、水産業ではHiramasa(ヒラマサ)など、今日も見られる豪州産の日本食材が産声を上げました。
当時のオーストラリアのフード·メディアの動きを振り返ると、オーストラリアン・キュイジーン、ナショナル・フードの確立が活発な動きを見せ始めた時期でもあります。何をもって、「オーストラリア料理」とするのか。誰もが、オーストラリアにおけるGastronomictraditionを考え始め、アデレード大学の中には、Master of Arts, Gastronomyというコースが作られ、研究者が集まり注目を浴びました。
イギリスの影響が色濃く残るオーストラリア料理がどう変わっていくか、アボリジニーの人たちが持つ歴史とネイティブ・フード、多民族国家として多様性をキーワードに形成されつつある料理。今なお、変わりつつあるオーストラリア料理。文化としての料理。
1990年代は、シドニー・オリンピックを控えてオーストラリアが向かう国造りについて政界で議論がかわされる中、食文化に関しても「オーストラリア料理」というのもへの関心が増した時期でもありました。
出倉秀男(憲秀)
料理研究家。英文による日本料理の著者、Fine Arts of Japanese Cooking、Encyclopaedia of Japanese cuisine、Japanese cooking at home, Essentially Japanese他著書多数 。Japanese Functions of Sydney代表。Culinary Studio Dekura代表。外務省大臣賞、農林水産大臣賞受賞。シドニー四条真流文芸師範、四條司家師範、全国技能士連盟師範、日本食普及親善大使