メルボルンはかつて世界一の金持ち都市となり「マーベラス・メルボルン」と呼ばれた栄華の時代があった。メルボルンを首都としたオーストラリア連邦政府ができる1901年までの50年間、メルボルンっ子はいかにして驚異のメルボルンを作り上げていったのか――。
第38回 イースト・メルボルン
イースト・メルボルンは、メルボルン・シティーの碁盤目を設計した初代土地測量局長官ロバート・ホドルによって1837年に測量され40年に成立した。イースタン・ヒルにはビクトリア州会議事堂(62年建築)、旧財務省ビル(62年)などの官庁街があり、歩いて通えるイースト・メルボルンには政府役人、政治家、法律家、医者などの富裕層の家屋や高級アパートが集中した。官僚・富裕層向け高級アパートでは、ロイヤル・テラス(56年)、クラレンドン・テラス(57年)、タスマ・テラス(78年)、クイーン・ベス・ロウ(87年)などの傑作建築が現存している。クイーン・アン様式建築のイースタン・ヒル消防署は93年に建設され、ビクトリア政府と首都メルボルンを火災や災害から守る最重要のメルボルン市消防本部として機能した。
イースト・メルボルンのランドマークといえば、セント・パトリック大聖堂である。セント・パトリックはアイルランド人の守り神で「命の雫を飲むように」と遺言を残したと言われ、3月17日のセント・パトリック・デーには象徴である緑色の服を着て、命の雫とされるビールを飲むアイルランド人を見掛ける。
大聖堂の東には26ヘクタールの広大なフィッツロイ公園が広がる。初代ラトローブ総督が、ロイヤル・ボタニカル・ガーデン植物園と共に都心の公園として最も注力した公園である。フィッツロイ公園は、上空から見ると英国国旗に見えるようにデザインされ、公園中央部にはキャプテン・クック船長の生家が英国より移設されている。
クック船長は、1769年に南太平洋の調査を開始し、ニュージーランドの南島と北島を分けるクック海峡を発見した。その後70年にはオーストラリアに到達し、東海岸を調査している。東海岸以外は、オランダ東インド会社(本部ジャカルタ)の船長たちによって既に調査されていたからだ。
実はクック船長は、メルボルンやビクトリアには来たことがない。1933年に英国の新聞にクック船長生家を800ポンドで売却するという広告が載せられ、メルボルンっ子のラッセル・グリムウェードが購入した。所有者は契約後に英国外へ持ち出しに反対したが、契約書には大英帝国国内と記入してあり、豪州は独立したが大英帝国の一員であった。そして、グリムウェードは、地元メルボルンに寄贈した。
イースト・メルボルンには、オーストラリア最大のスポーツ・スタジアムであり10万人が収容できるメルボルン・クリケット・グラウンド、通称MCGがある。56年のメルボルン・オリンピックの際は、メイン・スタンドとして活躍した。病院が集まる街としても有名で、セント・ビンセント病院、ガン・センター、ロイヤル・ビクトリア病院、マーシー病院、フリーメイソン病院など世界のトップ・レベルの治療を受けられる。
文・写真=イタさん(板屋雅博)
日豪プレスのジャーナリスト、フォトグラファー、駐日代表
東京の神田神保町で叶屋不動産(Web: kano-ya.biz)を経営