メルボルンはかつて世界一の金持ち都市となり「マーベラス・メルボルン」と呼ばれた栄華の時代があった。メルボルンを首都としたオーストラリア連邦政府ができる1901年までの50年間、メルボルンっ子はいかにして驚異のメルボルンを作り上げていったのか――。
第41回 フィッツロイ
若者文化の街として知られるフィッツロイは、繁栄と没落の時代を経験して来た街でもある。
メルボルンへの移民は1835年に始まり、39年には人口が3,500人に達した。同年にフィッツロイはメルボルン市で初の行政区サバーブとして成立し、59年に政府の行政法により市に昇格した。メルボルンの近隣サバーブとして軽工業の会社や工場が多く設立され、60~80年代にかけてメルボルン市が経済的に成長すると、フィッツロイには富裕層が増え、土地建物への投資が続いた。
ゲータルード通りやブランズウィック通りには、豪邸やホテルなどのきらびやかな店舗が並び、メルボルン市外で初の商店街が設けられた。61年にはフィッツロイ石炭都市ガス工場が建設され、地中パイプラインを通して市中に都市ガスが供給された。電気の供給より40年も早く、ガスをエネルギー源とする近代社会が作られていたのだ。
80年にフィッツロイに設立された「マクロバートソン菓子会社」は「フレッド(Freddo)」や「チェリー・ライプ(Cherry Ripe)」などのヒット商品を作り出しオーストラリア最大の菓子会社となったが、その後、英国のキャドバリー社に買収された。
52年創業の「フォイ&ギブソン」は、豪州最大のデパート・チェーンであった。販売のみならず、製造も行い、広大な敷地に製造部門、販売部門を持ち、衣料品、革製品、家具、寝具、食料品など広範囲の製品を製造販売していた。同社は都市ガスを使用したパワー・ハウス(石炭ガス・ボイラーによる蒸気供給)を始め、製造工場、ショールームなどの設備も所有した。
ブランズウィック通りの「ザ・ショップス」(88年建築)は、マーベラス・メルボルンと呼ばれた80年代の繁栄を象徴する豪華な建築物である。当時、メルボルンは土地が高騰し、バブルと言って良い時代であり、ビクトリア政府の郵政大臣が社長を務める不動産投資会社「API」が「ザ・ショップス」を所有していたことも時代を良く表している。不況の90年代には、インフレを抑えようと政府や銀行によってマネー・サプライが絞られた結果、多くの不動産業が立ち行かなくなり、「ザ・ショップス」も売りに出された。
90年代の不況期には失業者が街に溢れ、スラム街と化していた。一方で貧しい人びとを助けるために、教会、慈善団体、無料の病院などが設立された。アイルランド移民のシングルトン医師が始めたシングルトン・メディカル・センターは、身寄りのない人びとの宿泊所、売春婦や未亡人たちの保護活動などを行った。
文・写真=イタさん(板屋雅博)
日豪プレスのジャーナリスト、フォトグラファー、駐日代表
東京の神田神保町で叶屋不動産(Web: kano-ya.biz)を経営