第8回
ワン・アンド・オンリーを生きる
篤志家 デニー丸山
2021年、本誌11月号にゴールドコーストの「マルヤマ・フィールド」という野球場に関する記事が掲載されたように、主に日豪両国の野球を通じての交流に貢献してきた人物として知られるデニー丸山。80、90年代に実業家として大きな成功を収めた日系実業界の伝説的人物でもある。ビジネスの一線を退いてからは、長年、さまざまな社会貢献活動を行ってきた。昨年、古希を迎えた丸山のほぼ半世紀になる豪州での半生を振り返ると、ワン・アンド・オンリーの生き様が見えてきた。
(取材=21年12月6日/ゴールドコースト、取材・文・写真=タカ植松、取材協力:ロビーナ州立高校、文中敬称略)
PROFILE
デニーまるやま
1951年岩手県生まれ。71歳。料理人として欧州渡航後、73年に来豪、シドニーでシェフとなる。82年に観光業に転業して大成功を収める。その後、ビジネスの一線から退いて以降は野球を通じての日豪両国の交流や慈善事業などを幅広く行い今に至る。ゴールドコースト在住
PROFILE
タカ植松(植松久隆)
ライター。幸い、当連載の反響が良い。他州からも取材対象の紹介の労を取りたいと申し出があったが、対面取材にこだわりがあるので丁重にお断りした。州境を自由に往来できるようになって、移動費のスポンサーが付けば、いつでも喜んで(笑)
“Baseball as a tool”
デニー丸山、何度か耳にした名前だった。ただ、筆者がその名を聞く機会は、いずれもライター業で関わった「ベースボール」界隈に限られていたが――。
「僕にとっては“Baseball as a tool”なんだよ」と、古希を迎えてなお、若々しく日焼けした顔が言う。さすがに、その言葉をそのまま受け取るわけにはいかない。仮に、本人の言の通りに「若い人の夢を応援したい。その夢をシェアさせて欲しい」という思いを実現するための「道具」としてだけ野球に関わってきたのだとしても、よほどの貢献がないと豪州野球連盟から感謝状を送られない。ましてや、自らの名前が冠された球場などが建つわけがない。
昨年9月竣工のロビーナ州立高校「マルヤマ・フィールド」は、丸山の同校の野球特別プログラム開設以来続く長年の献身の賜物だ。その証拠に、オープニングには日系、ローカル問わず多くの人びとが参列、丸山のこれまでの功績を讃えた。
同球場は、彼の野球を通じての献身と貢献を未来永劫、顕彰していくモニュメントとして、これからも若きベースボーラーたちを育み続ける。
「成功者」だとは思わない
そもそも、デニー丸山とは、いったい何者なのか。「なんだろうなぁ。一応、一番良く使うロビーナ(州立高校)の名刺では“パトロン”ってなっているけど、野次馬でもないしなぁ(笑)」と煙にまく。資産家、実業家、投資家、これらの全てが当てはまるのだが、かと言ってどれも彼の現在を端的に言い当てていない。今の彼ならさしずめ、篤志家ないしは慈善活動家が一番近いのかもしれない。
「僕のことを成功者と言う人もいるよ。まぁ充分食べられているし、かつて最盛期には6つの会社で240人の従業員を抱えていたし、税金もたくさん収めてきた。でも、自分が成功者だなんて意識はなかったし、ビジネスを手放すのも早かった。ウジウジ人生終わりたくないし、失敗したらやり直せば良い、とにかくやってみようという人生を送ってきたら、こうなったんだよ」
若くして料理人として来豪、時代の流れをうまくつかんで観光業へ転業。ジャパン・マネーが世界を席巻する時流に乗ってのビジネス拡大で1代にして財を成す――ある意味、戦後の日系移民新世代のサクセス・ストーリーの理想形とも言えるその豪州での歩み。その半生を他とは決定的に違うものとして際立たせたのは、「成功」の先の身の振り方だ。
“成功者”の座に安住することを潔としなかった丸山は、日本経済の退潮のシンボリックな出来事であるバブル経済の崩壊を予期していたかのように、すっぱりとビジネスの一線から身を引いた。その後は、若者に夢を与えるためのさまざまな慈善事業や交流事業に東奔西走。それらを手弁当で続け、今に至る。
岩手の寒村から欧州経由、豪州へ
そんな丸山が豪州に至るまでの前半生を振り返ろう。
昭和26(1951)年、丸山傳つたえ、後のデニー丸山は、炭焼きや林業で生計を立てる山深い岩手県岩手郡梁川村(現・岩手県盛岡市)の根田茂という小さな集落に6人兄弟の5番目として生を受けた。傳少年が小学校4年になるまで電気が通っていなかった寒村の根田茂小学校(廃校)では、生徒たちは複複式学級で学んだ。
「小学3年生の時に図書館で借りたゴッホの伝記に感動して“おらはゴッホになる”って思った。でもこれって、後で知ったらさ同じ東北の棟方志功さんと同じだった(笑)」
"失敗したらやり直せば良い、とにかくやってみようという人生を送ってきたら、こうなった"
ゴッホに触発された芸術への興味は、年を経て「料理は絵と違い、匂いがあり、味わえる芸術だ」との思いに取って代わり、いつしか料理人になるのを夢見ていた。
中学卒業後、当時の農村出身者の例に漏れず、集団就職で上京。料理への情熱は捨て切れなかった丸山少年は、神奈川県川崎市の就職先を1年で辞めて調理師学校に通った。19歳で晴れて調理師になるとポケットになけなしの200米ドルをねじ込み、料理の本場・欧州渡航を決行。懐は寂しくとも、芸術としての料理を極める――そんな熱い思いを胸に秘めての出国だった。その後、3年間の欧州での研鑽の日々は、まさに「包丁1本さらしに巻いて」を地で行くもの。そのころのさまざまな冒険談は興味深い話ばかりだが、それを語るのは、またの機会に譲ろう。
シドニーでの出会い
73年、22歳のデニー丸山は、豪州に辿り着く。「欧州滞在後に少し日本で落ち着こうと一時帰国した時、11人しかいない小中の同級生の1人が板前でシドニーにいるって聞いて、じゃあ、次は彼に会いにシドニーまで行こうかなって」
そんな軽い気持ちで赤道を超えて辿り着いたダウンアンダーの地。そこがまさか、自分の約束の地となろうとは、この時には思いも寄らなかったろう。
白豪主義を撤廃したばかりで、まだ日本人と分かれば露骨に嫌な顔を見せる人が多い時代。それでも、欧州仕込みの若き日本人シェフが高級レストランで職を得るのは、さほど難しくはなかった。まだワーキング・ホリデー・ビザが日本人には出ていなかったこともあって、そもそも日本人自体が少ない。そんな時代にシドニーで生きる日本人には個性的な人間が多く、小さなコミュニティーながらお互い助け合いながら暮らした。後に生涯の伴侶となる節子ともこのころに出会った。
そのころに交わったある日本人同胞との思い出を語る時の顔には、ひときわ懐かしさが満ちていた。
「今回、健ちゃんの日豪プレスの取材って聞いて、つくづく縁があるなぁって思ったんだよ」
丸山が”健ちゃん”と呼ぶのは、日豪プレス創業者にして元社主の坂井健二、その人。本誌OBの筆者も大変お世話になった。
「あのころ、よく一緒につるんでいたんだよ。これからの日系社会には自前の新聞が必要だって、自分で作っちゃうんだから、すごい男だし、尊敬しているよ」と懐かしむ。実はこの2人の関係は、ちょっとしたすれ違いを重ねているうちに没交渉になったまま。
「こうやって健ちゃんが作った日豪プレスが形は変わってもコミュニティーのために発行され続けている。僕もそれを励みに、自分ができることを頑張ってきたんだよ。お互い歳を取ったし『あのころは若かったよな』って昔話をしたいよね」
ビジネスの一線を退いて
日豪プレスと言えば、少し昔、イルカのイラストが印象的な観光会社の広告が毎月出ていたのを覚えている読者はどれくらいいるだろうか。その“ドルフィン・ツアーズ”こそが、丸山の興した事業だ。「シェフの仕事の合間を見て、日本人旅行者の空港送迎やアテンドをしていたのが、そもそもの始まり。その内、自分が心底感動したこの国のすばらしさを日本人観光客にきちんと伝えなきゃと思って、この国で9年やったシェフ稼業を辞めて専業にしたら、ちょうど円高なんかもあって日本人観光客がどっと増えて、大忙し。更にバブルの好景気もあったしね」
時流をつかんだ事業はうなぎ登りに成長したが、丸山は会社経営にしがみ付くことはなかった。バブルが弾け、日本が世界経済の主流から外れると、最盛期に幅を利かせていた不動産や観光業を主とした日系ビジネスは大きく退潮。それでも、既に“実業家”の看板を降ろしていた丸山はノーダメージだった。本人は「勘だけは良かった」と謙遜するが、彼の人生の節目での思い切った決断の数々は、なかなか常人が真似できるものではない。
当初、ゴールドコースト近郊の恵まれない子どもたちへの学資や生活援助から始めた慈善事業も、年を経るごとにさまざまな事例が増えていった。野球での社会貢献では、今も続く浦和学院高校との人材交流や、当時のオーナーの放漫経営での経営難がささやかれていたゴールドコーストの地元球団クーガーズのオーナーを2年間無報酬で務めたりと、多岐にわたった。30年以上、さまざまな慈善事業、交流事業を続けてきた丸山だが、古希を迎えた身には今まで通り続けていくのは簡単ではない。
「僕には幸い資産があったので、さまざまな野球での交流事業を手弁当でやってこられた、だけど、それを引き継ぐ若い世代にはきちんとビジネスとしてやって欲しい。野球を愛していて、意欲に満ちた、安心して後を託せる人間もいる」と野球関連の交流事業での「事業継承」に抜かりはない。
If you build it, “they” will come.
「人生が楽しくてさ、まだ、やりたいことはたくさんあるけど、“老害”と呼ばれるようなじいさんだけもはなりたくない」と強調する丸山だが、そんな心配はまず必要あるまい。
そんな彼のやりたいこととは。
「ケビン・コスナーの映画『フィールド・オブ・ドリームス』のあの有名な『おまえが作れば、必ず彼はやって来る』じゃないけどさ、球場ができてからいろいろな出会いがあったんだよ」と目を輝かせる。それらの出会いは、丸山の畢ひっきょう竟の大仕事としての日系コミュニティーへの還元という形に現れていくことになるかもしれない。
「先日の(球場の)オープニングで、これまで日系社会と距離を置いてきたから知り得なかったような人たちとたくさん知り合えた。そこでいろいろな話をしていたら、ゴールドコーストに日本の文化会館を建てようという構想とか面白いことが話題になった。あとは、前から考えていた日系のシニアの方々が安心して暮らせる日系の養老院のアイデアも、実現できそうな人脈もつながってきたしね」と夢は膨らむ。
含蓄があり、示唆に富む丸山の箴しんげん言は、彼の独特の語り口も相まって、心にストンと落ち、聞く者を魅了する。
「僕はね、人生っていうカレッジをまだ卒業していないから、まだ卒業証書はない。生きている限り、誰かから何かを学ぶので当面卒業の予定はないけどね(笑)」
古希を迎えてなお意気盛んなデニー丸山。彼が喜寿、傘寿、米寿、更にその先まで、ワン・アンド・オンリーの人生を走り抜けた後には、必ずやQLD州南西部の日系コミュニティー全体が恩恵を受けられるようなレガシーが残るに違いない。私たちのコミュニティーに、彼のような人物がいたことを素直に感謝したい。今回未出の冒険談や名言録などを含め、デニー丸山の生き様をもっと聞き書きしておかねば――そんな義務感が芽生えてきた。