日本の幕末に、米国の黒船やロシア、フランスの軍艦が江戸や長崎に押し寄せたころ、欧米列強の軍艦は、英国植民地を狙って豪州沿岸にも出没していた。ナポレオンからナポレオン3世時代のフランス(1800~70年)、クリミア戦争(53~56年)期のロシア、南北戦争時代(61~65年)のアメリカなどであった。
フランスのナポレオン・ボナパルト皇帝が、ネルソン提督率いるイギリス艦隊にトラファルガーの海戦で大敗するなどで皇位を追われ、フランスはイギリスに対して強い対抗意識を持っていた。
メルボルンの観光地で港湾部のウィリアムズタウンには、ナポレオンが投降した英国戦艦ベレロフォン号の錨いかりのスイベル・ジョイントが置かれている。スイベル・ジョイントは、英国戦艦ネルソン号の錨に再登載。ネルソン号は、65年に大英帝国第2の都市メルボルン防衛のため、ビクトリアへ寄贈されウィリアムズタウンへ回航された。
ネルソン号には英国と薩摩、長州との戦争(63、64年)に使用された世界最新鋭の110ポンド・アームストロング砲など48門の大砲が武装されており、クイーンズクリフ要塞に再利用された。
68年の戊辰戦争では英国は薩長側に、フランスは幕府側についたが、英国製アームストロング砲は薩長軍が使用、新政府軍勝利に貢献した。
59年に英国陸軍のピーター・スクラッチニー将軍がメルボルンを訪問して植民地の海防にアドバイスを行った。ビクトリアの基本的な防衛は、フィリップ湾の出入り口に集中し、湾の入り口と水路の浅瀬に要塞を建築することを提言。
ウィリアムズタウンなどホブソン湾内部の数カ所に大砲砲台建設、ポート・フィリップ湾の出入り口に巨大大砲の砲台建設を建言し、クイーンズクリフ要塞の建設を決定した。
ポート・フィリップ湾の東側の防衛は、ネピアン要塞、シェボー要塞、ピアース要塞が小規模ではあったが建築された。75年に最高機関であるロイヤル委員会によりビクトリア植民地軍が創設された。クイーンズクリフ要塞には、実質的な防衛総司令部が置かれ、メルボルンの植民地政府と電信線でつながれた。
クイーンズクリフ要塞を中心としたビクトリア、メルボルン防衛システムは、82年に運営開始され、ポート・フィリップ湾は南半球で最も防衛網が強化された場所となった。メルボルン湾の各要塞には豪州海軍が駐留し、ネピアン要塞とクイーンズクリフ要塞は、第2次大戦時には完全な臨戦態勢で運営された。
このコラムの著者(文・写真)
イタさん(板屋雅博)
日豪プレスのジャーナリスト、フォトグラファー、駐日代表。東京の神田神保町で叶屋不動産(Web: kano-ya.biz)を経営。