第10回:ボスにとっての挑戦
私がオーストラリア連邦政府金融庁の秘書職に応募した時、100人以上の応募があったらしい。私の上司は統計部の部長で、通常は常務以上の役員でないと秘書が持てないこの職場で、彼の長年の努力の成果、やっと勝ち得た予算での秘書採用。うまくいかなければそれまでという賭けのようなものだった。
変わり者でちょっと偏屈者の統計部長のスティーブは、多くの候補者の中から私を選んでくれた。私のように日本人で、英語が母国語ではない秘書を雇っている役員など他には1人もいなかった。
アナリストやIT、経理の仕事なら、英語が母国語でなくても雇ってもらえるけれど、役員秘書は、上司に代わって文書のやりとりや、書類を読んでは返答と、限られた時間内で素早く対応しなければならないため、スピードと正確さが必要とされる。当時、就職活動で分かったことは、英語圏で生まれ育っていない限り、英語圏以外からの移民一世が、オーストラリア現地組織で秘書に採用されることは、まずないということだった。
私は、日系旅行会社のリストラ後、オーストラリアの政府や地元団体で仕事をしてみたいと応募してみたが、経験やスキルがあっても、雇って貰えないことが多かった。
どんなに頑張っても、「母国語が英語でない」という事実は、変えることはできない。最終選考まで行っても、秘書職のオファーはもらえなかった。採用担当にフィードバックを求めたこともあった。出生や国籍を採用時に語ること自体が差別になるオーストラリア社会では、「母国語が英語でないから」と言うこともできず、「スキルと経験は充分です。これからも頑張ってください」と励まされるだけであった。
スティーブは私を秘書に雇ったが、彼の試練はそこから始まった。私が仕事を始めて、ちゃんと軌道に乗るまでどんなに時間が掛かったことだろうか。他の人ならしびれをきらし、もうこんな秘書なら要らないと言っても良いくらい、私は全くの役立たずであった。
スティーブは怒らず、アドバイスし続け、励ましてくれた。私はそんな上司に申し訳なくて仕方なかった。秘書の私が上司のサポートをするのでなく、上司が私の手助けをする。そんな時期が長く続いた。
苦情もあったに違いない。なさけない秘書で、苦労ばかりかけた毎日。あなたの忍耐には感謝してもしきれない、スティーブ、本当にありがとう。
ミッチェル三枝子
高校時代に交換留学生として来豪。関西経済連合会、マッキンゼー・アンド・カンパニー日本支社に勤務。1992年よりシドニーに移住。KDDIオーストラリア及びJTBオーストラリアで社長秘書として15年間従事。2010年からオーストラリア連邦政府金融庁(APRA)で役員秘書として勤務し、現在に至る