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オーストラリア・シドニーで対日戦勝利の式典ささやかに 太平洋戦の終結から78年

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第2次世界大戦の犠牲者約4万人を慰霊

 オーストラリア東部シドニーで15日、78回目となる「太平洋戦勝利の日」(VPデイ)の式典がささやかに行われた。連合国側のオーストラリアや米国などでは、東京湾上の米戦艦ミズーリで日本が降伏文書に調印した1945年9月2日が正式な戦勝の日とされており、8月15日の扱いは小さい。

1945年8月、メルボルン市内で対日戦勝利を祝う市民(Photo: Australian War Memorial)

 シドニー市内中心部マーティン・プレースにある戦没者慰霊碑。デービッド・ハリス・ニューサウスウェールズ州退役軍人相やレイ・ジェームズNSW退役軍人会代表らが参列し、第2次世界大戦で命を落としたオーストラリア人戦没者に祈りを捧げた。

 日本は本土決戦が迫った45年8月、広島・長崎への原爆投下とソ連参戦で国家存続の危機に。昭和天皇がラジオの「玉音放送」で日本の無条件降伏を表明した8月15日。連合国の一員として日本と戦ったオーストラリアでは、ベン・チフリー首相(当時)が戦争終結を宣言し、シドニーやメルボルンなど大都市の目抜き通りでは、戦争勝利を祝う市民で溢れかえった。

「占領の脅威、決して忘れない」

 それから78年目を迎えた今日、ジェームズNSW退役軍人会代表は式典のスピーチでこう述べた。

「第2次世界大戦中、我が国が(日本軍による)侵攻と占領に直面したことを人々は決して忘れてはなりません。我が軍と連合国軍の男女の貢献と犠牲によって、オーストラリア国民は戦争が国土に及ぶのを防ぐことができたのです」

1945年8月15日のメルボルンの日刊紙「ザ・ヘラルド」。「ジャップの(大日本)帝国は消え去り、本土の列島だけが日本に残される」と報じた

 戦後の研究では、日本軍にオーストラリア占領の意図はなく、連合軍の兵站を分断するのが目的だったとされるが、度重なる空と海からの攻撃によって当時のオーストラリアでは日本軍による本土侵攻の脅威が間近に迫っていた。

 オーストラリア戦争記念館によると、日本軍は42年2月10日、北部ダーウィンを空爆して252人が死亡。戦況が悪化する43年11月まで、北部から北東部の主要都市に合計97回、空からの爆撃を行った。

敵兵に海軍葬を行った「武士道精神」とは?

 また、日本軍は42年5月31日から6月1日にかけて、特殊潜航艇3隻をシドニー湾内に侵入させて魚雷を発射し、オーストラリア海軍の補助艦を撃沈して乗員21人が犠牲となるなど、海からも潜水艦や航空機で東海岸一帯に攻撃を行った。

自爆後、シドニー湾内の海底から乗組員とともに引き上げられた日本軍の特殊潜航艇(Photo: Australian   War Memorial)

 なお、特殊潜航艇3隻のうち2隻はシドニー湾内で自爆したが、オーストラリアは敵国の兵士であるにもかかわらず戦死した乗組員4人の勇敢さを称え、海軍葬を行った。

 残る1隻も沖で待っていた日本海軍の母艦に帰還することはなかった。長く行方不明となっていたが、64年後の2006年、シドニー北東海岸ブンガン岬沖約5キロ、水深約55メートルの海底で発見された。後に戦争遺産として州政府に登録され、保護されている。

「魚雷が命中していたら…」

 15日の式典には、当時16歳の若さで出兵した退役軍人のドン・ケネディーさんも参列した。海軍に徴用された商船に乗り、1944年2月にシドニー湾を出航したケネディーさんは「1年7カ月間、従軍していました。船の鉄板の厚さは0.5インチ(1.27センチ)。魚雷が船に命中していたら…」と振り返った。

 オーストラリア戦争記念館によると、オーストラリアは第2次世界大戦で3万9,656人(対ドイツ・イタリアの欧州戦線と、対日本の太平洋戦線の合計)の戦死者を出した。対日戦では太平洋と東南アジアで激しい戦火を交え、オーストラリア外務省によると2万2,376人が日本軍の捕虜となり、このうち8,301人が抑留中に死亡した。

■ソース
Second World War veterans remembered on Victory in the Pacific Day(Minister for Veterans, New South Wales Government)





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