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19世紀末の経済バブル崩壊─メルボルン住宅金融組合/マーベラス・メルボルン 第73回

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メルボルン市内エリザベス通りにある住宅金融組合ビル

 1880年代、マーベラス・メルボルンと呼ばれたメルボルンは、世界で最も富裕な都市と言われた。コリンズ通りなどの目抜き通りには高層ビル街が出現した(電気やエレベーターがない時代なので高層といっても7、8階の高さではあったが)。

 80年代ブーム期と呼ばれる経済バブル時代が発生し、その資金により建築ブーム期が出現した。ところが91年、ある日突然バブルが崩壊し、多くの大企業や銀行までもが雪崩を打って倒産した。筆者は、10年以上もこの謎を追っていた。

 そして、調べるうちに住宅金融組合という奇妙な名前の団体に行き着いた。経済の話で小難しいが、筆者としてはぜひとも記録に残したいメルボルンの繁栄と崩壊の謎に迫る話である。

 メルボルンでは、60年ごろから不動産投資が盛んになり、大もうけをする投資家が現れるようになった。この不動産投資ブームを支えたのが、住宅金融組合という組合員間の互助会であった。

 住宅金融組合は、元々英国イングランドで18世紀の終わりごろに、労働者階級向けに貯蓄と住宅所有の推進を目的として設立された団体で、所属する組合員を対象として、住宅購入資金の蓄積を勧めた。

 くじ引きで当たりを引いた組合員1名が住宅購入資金の借り入れをすることができた。毎年1名が当選し、10名の組合であれば、10年で組合員全員が自宅を購入できる仕組みだ。そして全組合員が自宅を建て、借入金と高い利息を完済すると、組合は解散した。初期の段階では穏健な互助会であり、労働者階級の自宅保有に貢献する健全な団体であった。

投資目的で建てられたフィッツロイにあるビル。金融恐慌で倒産した

 ところが、住宅金融組合は、徐々に組合員数と資金を増やし、自宅保有者も入会が認められるようになると、次第に不動産投資を行う団体へと変わっていった。

 巨額の資金が集まると、住宅金融組合はそれを元手に土地を買って資産を増やす、一種の投資機関として力を持つようになった。

 オーストラリアでは、住宅金融組合のような組織は、1851年のゴールドラッシュ以前からメルボルンに存在していた。50年に、ある開拓者団体の役員が「自由で開かれた土地であるビクトリア植民地に移民した。祖国英国に比べて、合法的に10倍の土地売却利益が得られる」と言っている。当時、英国では規制法があったが、ビクトリアでは明確な規制法がなかったことも大きな違いを生んだ。

 ゴールドラッシュ後に土地保有への熱が高まり、メルボルンの商店経営者や労働者による郊外の自宅購入が進んだ。65年にスコットランド生まれのジェームズ・ムンロー(当時のメルボルン市長、デビッド・ムンローの兄)が設立したビクトリア住宅金融組合が住宅金融組合を明確に名乗った最初の組織と言われている。

サウス・ヤラにあるビル。ジェームス・ムンローの投資拠点だった

 組合員以外からも資金を預かり、自宅購入者だけでなく不動産投資家にも資金を提供することにより、住宅金融組合は使用可能な保有資金を倍増させた。メルボルンだけでなく英国からも資金を集め、80年ごろには大きな地方都市の町全体が住宅金融組合によって建設されている。80年代半ばには、住宅金融組合の資金は、都市銀行と肩を並べるまでになり、住宅投資部門のシェアは首位となった。

 ジェームズ・ミランズは80年代に、土地投融資銀行(Land Bank)、トラム鉄道会社、禁酒ホテル(Coffee PalacesまたはTemperance Hotels)などの企業群のオーナーとなり、イースト・メルボルンの豪邸に住んでいた。

 90年3月にミランズのプレミア住宅金融組合が破産したことが、金融恐慌の前触れであり、最終的にはメルボルンの産業全体の壊滅にまで及んだ。91年12月までに住宅金融組合や都市銀行、大企業の多くが倒産した。土地、建物の財産価値がひっくり返ったことにより、メルボルンの住宅の価値は大幅に下落した。

 それにより、職を失った住宅ローンの借入者は、返済ができなくなった。住宅金融組合は、突如として売却不可能な数千の郊外の不動産所有者になり、借入金の返済が滞り崩壊していった。メルボルン史上最大の悪夢の始まりであった。

このコラムの著者(文・写真)

イタさん(板屋雅博)

日豪プレスのジャーナリスト、フォトグラファー、駐日代表。東京の神田神保町で叶屋不動産(Web: kano-ya.biz)を経営

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