サウス・コースト地方の田舎町に移り住んで以来、シドニーの都市圏との往復に電車を使うことがある。田舎と都会を行き来する片道3時間ほどの鉄道の旅程には、オーストラリアの海岸線や田園風景など絵画のような美しい眺めがもれなく付いてくる。田舎の駅に残る旧時代の設備や、電車とディーゼル・エンジン式車両の乗り継ぎにも、日常に溶け込む旅情を感じる列車移動の時間だ。(文・写真:七井マリ)
都会のビル街から森の中へ
田舎に移り住んでからも、年に何度かはかつて暮らしたシドニーを訪れる。所用を済ませ、友人に会い、数日間の滞在を終えたら、シドニーの鉄道のハブであるセントラル駅から南へ向けて帰路に就く。サウス・コースト線の終着駅までおよそ160キロ。急がない長距離移動はぜいたくな読書の時間になるが、車窓からの景色のめまぐるしい変化も楽しく、つい目を奪われては手元のページを繰るのを忘れてしまう。
ひとたび線路の上を電車が走り出せばビルが立ち並ぶ都会のにぎやかさは後ろへ遠ざかり、住宅の多い郊外を過ぎると電車は一路、東海岸沿いの町々をつないで南下する。シドニーを発って30分もすると視界に緑が増え始め、サウス・コースト線の中間辺りに位置するウーロンゴン(Wollongong)駅までの区間は、森の間を縫うように電車が走る。生い茂るユーカリやアカシアの木々、線路ぎわに切り立つ岩壁、はるか眼下を流れる谷川、その上に差す木漏れ日。時折、落石防止の金属メッシュが設置された斜面を見掛け、いつかの集中豪雨の後には土砂崩れで電車の運行が停止したという報道もあったことを思い出す。
私が乗る電車よりはるかに長い貨物列車とすれ違ったと思ったら、急に空が開けて駅が近い。ウーロンゴンは大学や企業が拠点を置く港湾都市で、近隣には重工業エリアも広がる。駅では学生らしき人びとが乗降し活気があるが、少し離れれば電車は再び緑の中を走る。サウス・コースト線はシドニーからの距離に伴って乗客が減る一方ということもなく、鉄道は沿線住民の暮らしにおいて重要な役割を果たしているようだ。
町並みが表すライフスタイル
小さな町と森や草地の景色を繰り返し車窓に映しながら、ハイウェイと並走するように電車は進む。時折、東側には青い海ものぞく。町と呼べる規模の人口密集地から遠ざかれば、ビルや集合住宅のような高さのある建造物はすっかり姿を潜め、家屋そのものの数も極端に減り、少ない中にも大きな一戸建てが存在感を増す。シドニー近郊の住宅と比べてゆったりとした庭や隣家との距離が、都市部と違う地方部のライフスタイルを示している。
海沿いのなだらかで広大な傾斜地の町には、外壁も屋根も白で統一された家が多く、強烈なまでの日照による輻射熱を抑えるためだろうと想像がつく。ソーラー・パネルを備えた家も以前より増えてきた。それを見ながら、年々激しさを増す猛暑や干ばつ、洪水など気候変動の影響を受けて、住まいの姿はこれからも変わっていくのだろうと考える。
シドニーから2時間強で、電車は風光明媚なリゾート・タウンのカイアマ(Kiama)に着く。海岸の岩の割れ目から潮が吹き上がるブロウホール(blowhole)がよく知られ、小旅行先としても人気がある。電車からは、眺望に優れた広いガラス窓やバルコニーをしつらえた豪邸やリゾート・マンションが目に入る。電車はカイアマ駅で折り返しとなり、ここから先、終点まで行くために小型の列車に乗り継ぐ。
「電車」ではない単線区間
シドニー市内からカイアマまでの区間は都市型の車両と近いタイプの4~8両編成の電車だが、終点手前の単線3区間を走るのはディーゼル・エンジン式の2両編成の列車だ。外装も内装も電車に見えるが、自動車のように給油して走る鉄道車両なので車両の上にパンタグラフや架線がない。ディーゼルを使う気動車は蒸気機関車と電車の間の時代には方々で運行されていたものの、現代のオーストラリアでは日本同様に主に地方部を走るのみ。とはいえサウス・コースト線の単線区間は数年後に、電気とディーゼルを併用する新型ハイブリッド車両に置き換わる計画だと聞く。密かな鉄道好きとしては、新旧どちらの車両も興味深い。
列車は複数のトンネルをくぐり抜け、丘を超え、広々とした牧草地や耕地の間を進む。大空を悠々と流れる雲の影が丘陵地に落ち、海岸線が近い所では砕ける波の白さが鮮やかだ。風に吹かれる牛や羊の群れの向こうには、干し草を巨大な缶詰形にまとめたベール(bale)や農作業用のトラクターが見える。遠くまで見渡せる景色に、帰ってきた、という実感が湧く。
サウス・コースト線の最南端にして終点のボマデリー(Bomaderry)駅が、私の住まいの最寄り駅。最寄りといっても帰宅までは更に車で数十分かかり、公共交通の利便性は都会と比べ物にならないが、田舎ならではの風景や空気感は鉄道利用の大きな楽しみだ。
日常と非日常を乗せて走る鉄道
終点のボマデリー駅の施設は現代風に改修が加えられているものの、レンガ造りの駅舎の壁などに古い時代の面影が入り交じる。都市圏の駅にもよくあるタッチ式の交通ICカード精算機の傍らでは、次の発車時刻に合わせて駅員が古風な時計型の運行案内板を手動でセットしている。この単線区間は1~2時間に1本の鉄道運行であるため、デジタル式の電光表示がなくても事足りるのだ。オーストラリアの田舎の駅でよく見られるこの旧時代の趣きたっぷりの運行案内板は、現代的な都会から隔たった地まではるばる来たことを感じさせてくれる。
切符の時代でなくなったので分かりにくいが、シドニー市内とボマデリー間の現在の運賃は7.23ドル。利用者の多い朝夕のピーク・タイム料金だと割高になる。1駅分の移動に最低約3ドル掛かることと比べると、3時間の旅程で約7ドルの電車賃はかなり手頃といえる。なお、鉄道は州政府による公営。都市と地方を割安に行き来できる料金体系は、居住地による交通費の格差是正や、環境負荷の少ない電車での観光促進に効果がありそうだ。
サウス・コースト線の乗客は、身軽な装いで数区間だけ利用する人はもちろんのこと、大小の旅行鞄を携えて私のように長距離を移動する人も少なくない。金曜には思い思いのおしゃれをして都会へ向かう若者たち、週末や休暇シーズンには沿線の観光地で乗り降りする家族連れやグループで車両内が華やぐ。都会と田舎をつなぐ鉄道は、人びとの日常と非日常を乗せて今日もオーストラリアのサウス・コーストを走っている。
著者
七井マリ
フリーランスライター、エッセイスト。2013年よりオーストラリア在住