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東京パラリンピック競泳銀メダリスト、オーストラリア人代表リッキー・ビーター選手━日本人母が語るパリ大会への思い

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 8月28日〜9月8日の12日間にわたりフランスで開催される「パリ2024パラリンピック競技大会」。東京パラリンピックの競泳混合400メートル・リレーの銀メダリストで、開幕まで1カ月を切ったパリ大会の代表に内定している競泳の知的障がいクラスのリッキー・ビーター選手の母、典子さんに、リッキーさんの幼少期や水泳を始めたきっかけ、パリ大会に出場するに至った経緯など、話を伺った。

幼いころのリッキー選手について伺えますか。

 リッキーは2003年9月に大阪で生まれました。日本名は「力生」です。発育を心配し始めたのは2歳を過ぎたころで、リッキーは3歳になっても意味のある言葉を発しませんでした。その時、私は「発達障害」という言葉を知らず、周りからは「バイリンガル教育のせいだ」と言われました。必死に簡単な単語を教え、リッキーが初めて「ママ」と言ってくれたのは4歳になってからです。

 4歳になって通わせ始めたデイケアで、初日に園長先生から「リッキーは目線が合わない(アイコンタクトができない)」と言われ、愕然としました。私たち親に目を合わせることへの抵抗はないのですが、他人とは目を合わせようとしないことが分かりました。その数カ月後、発育検査を受けた際、言語能力が著しく低いと指摘され、5歳になる直前から言語療法士(Speech Pathologist / SP)の所に通うようになりました。

 SPでのアセスメントの結果、リッキーの言語理解能力が実年齢より2歳ほど下で、それが発言能力に影響を及ぼしていることが判明しました。耳で聞いて情報を得るのは苦手ですが、目で見て得る情報は非常に早く理解できることも分かりました。言語の理解能力に関しては、21歳になった現在も、たくさんの情報を含んだ文を言葉で言われると理解しにくいようです。

 自閉症の診断を受けたのはリッキーが6歳の時です(13歳でADHDも診断)。リッキーはコミュニケーション能力が低く、小児科医から「友達を作るのに苦労するかもしれない」と言われました。その時はリッキーの将来が不安になり、彼が生まれた時に「勉強ができなくてもたくさんの友達に囲まれて生きて欲しい」と願っていたことが叶わないと言われ、帰宅後に大泣きしたことを覚えています。

リッキー選手が水泳を始めたきっかけを教えてください。

 小学校に入ってから、勉強はあまり期待していなかったのですが、体力があるように思えたので、空手やテニス、柔術など、さまざまなスポーツを試させました。その中で唯一、自発的に行く準備をしてのめり込んだのが水泳でした。

 2歳ぐらいから水泳レッスンを始め、競泳クラス(Squad)に入ったのは9歳の時です。4年生の時に学校の地区の水泳大会で初めてレースを経験し、一番遅かったことが悔しくて初めて悔し涙を流しました。その足で私がSquadのコーチに直談判し、チームに入れてもらいました。10歳で初出場した州大会でたくさんメダルを獲得しました。14歳になる直前に移籍したコーチに「学習障がいがあることで世界レベルの競技ができる」と言われ、障がい認定を受けたことで、州レベルから一気に世界トップ・レベルに達しました。

 リッキーの障害は競泳では「S14」。知的障がい(Intellectual impairment)のクラスです。S14クラスの選手は、自閉症やADHDを持っていることが多く、見た目では分かりにくい障がいです。リッキーのように言語の理解能力が低いとトレーニング中にコーチの指示が理解しにくく、聴覚過敏があるため、大きな試合ではノイズキャンセリングのヘッドフォンを付けなければ精神的に影響を受けることがあります。リッキーの聴覚過敏が分かったのは8歳の時です。

 見た目では分かりにくい障がいであることや、メディアに注目され始めたことから、SNS上で「これまで州トップだった選手がなぜ急に障がい者になるのか」など、バッシングを受けました。息子がそうしたことの標的になることに胸が痛みましたが、「この人たちは私たちがリッキーを育てるのにしてきた苦労を知らない」と強く思う一方、私は親として息子が「知的障がい」の認定を受けることに非常に抵抗がありました。障がいがあることを公表することになるからです。しかし、リッキーは乗り気で、夫も「本人の好きなようにさせるべき」と言うので、最後には開き直りました。

東京パラリンピックに出場し、競泳混合400メートル・リレーで銀メダルを獲得しましたね。

 はい。東京パラリンピックの出場が決まった時、リッキーは17歳でした。開催が1年遅れ、ロックダウン中だったため、出場の2カ月前には自宅を離れ、3カ月間家族と離れることになりました。観客なしでの開催が決まり、観戦を断念しましたが、リレーで銀メダルを獲得した時は、自宅で観戦しながら夫と抱き合って号泣しました。

パリ大会に出場するに至った経緯をお聞かせください。

 リッキーが東京から戻ってきた後、ロックダウン中にコーチが引退し、新しいコーチやチームを転々としました。結局、シドニーからキャンベラ、そしてQLD州サンシャイン・コーストへとトレーニングの拠点を移しました。パリ五輪・パラリンピックの競泳の選考会はブリスベンで開催され、自己記録(PB)を更新する必要がありましたが、3日目に一番得意とする200メートル個人メドレーで自己記録を3秒弱も更新し、無事に出場を決めました。

 リッキーはパリ大会出場について、「もちろん金メダルを取れれば一番うれしいけれど、自分のベストの泳ぎをすることに集中したい」と言っています。

ありがとうございました。





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