シドニーの都市圏からサウス・コーストの田舎町に移住したことで、生まれて初めて見聞きしたことは少なくない。ユーカリの森のすぐ隣での田舎暮らしには、数多くのオーストラリアの動植物との関わり合いがあるからだ。森のサソリの存在、カンガルーの奇妙な行動、マダニの多い季節の過ごし方、雨の日の樹木の分泌物など、オーストラリアでの田舎暮らしを通してこれまでに得た知識や学びを振り返ってみた。(文・写真:七井マリ)
隣人からの贈り物は森のサソリ
砂漠の生物というイメージのあるサソリが、森にも生息すると知ったのは田舎暮らしを始めてからすぐのこと。クモの糸にかかって死んでいた暗褐色の見慣れない生物は、3センチほどの胴体から2本のハサミ型の鋏角と8本の脚が生えていた。ウッド・スコーピオン(wood scorpion)と呼ばれる小型のサソリの1種のようで、倒れて朽ちた木などを住処とするという。動植物の観察が好きな私は森のサソリの存在を初めて知って興奮気味に隣人に話したが、もちろんと言うべきか隣人は既に知っていた。
しばらく経ったある日、隣人が透明な食品の空き容器を片手に現れた。好きかと思って、と手渡された容器の中には親指の第1関節ほどの全長のサソリが。屋外に積んであった古い木材の間から出てきたそうだ。生きて動いているサソリを間近で見られるとは願ってもないことだった。
容器のふたをそっと開けると、砂漠のサソリの精巧なミニチュアのような姿があった。サソリはハサミを振りかざし、尾の先端の針を立てて臨戦態勢。甲冑に覆われた様を思わせる風体は弱々しさとは無縁だが、あまりに小さいので容器の側面を登ることもできないのが可愛らしい。とはいえ小型でも毒があるので触らずに観察し、最終的に森の朽ち木に放した。隣人からサソリをもらうというのは、田舎暮らしといえどもなかなか得難い経験だったと思う。
牛に似た行動をとるカンガルー
田舎暮らしを始めてからは1日に出くわすカンガルーの数が人間の数より多く、おかげでその生態に関する知識が少々増えた。
夕暮れ時、家庭菜園の水やりをする私の近くで草を食べていた1頭のカンガルーが、えずくような聞き慣れない音を発していることに気付いた。カンガルーは腹ばいになったまま、何度も口を半開きにしたり首を前に突き出したりと見たことのない動きをしていて、苦しんでいるように見えなくもない。人間でいうなら、のどに何かが詰まったか、吐き気を催しているような仕草。もし命に関わることなら野生動物のレスキュー団体に連絡する必要がある。
カンガルーが発する奇妙な音と不自然な仕草は、10分もしないうちに唐突に止んだ。何事もなかった顔で咀嚼(そしゃく)するように口を動かしている。問題はなさそうだと判断したが、その後もずっと気に掛かっていた。
謎が解けたのは、カンガルーに関するドキュメンタリー映像を見た時だ。窒息しかけているようなカンガルーの行動はメリシズム(merycism)と呼ばれ、食べ物を胃から口内に吐き戻し、再び咀嚼して飲み込むらしい。牛の反すう行動と似ているが、タイミングや頻度などが異なる他、消化活動に必須ではない点が違うという。ある研究チームによる論文では、しっかりかまずに飲み込んだ食物をすりつぶすことがメリシズムの目的だろうと推測していた。急いでえさを摂取した後に高頻度で起きるようで、カンガルーの世界でも早食いは何かと体に負担が掛かりそうだ。
小さな吸血生物の春夏秋冬
オーストラリアの森や野原に吸血生物のマダニが多いことはシドニー在住時からぼんやりと知っていたが、どれほど多いかは田舎に移り住むまで理解していなかった。マダニにかまれて神経毒が分泌されると、猛烈なかゆみ、頭痛、吐き気、時にはアナフィラキシー・ショックも引き起こす。マダニが媒介する感染症から死に至るケースもあるので気が抜けない。
短時間でも庭仕事をすれば、いつの間にかマダニが服や手の上を這っている。4日連続でかまれたことや、1日で立て続けに3匹にかまれたこともあるが、何も注意していないかというとそうでもない。外での作業前には襟元や袖口の開きが少ない服を着て、帽子と手袋を身に着け、虫除けスプレーで防御する。作業後はマダニが付いていないか念入りに確認してから着替えるが、既に腕や首元にかみ付かれていることもある。どれだけ対策をしても小さなマダニを完全に避けるのは困難だ。
マダニは春や秋に多く、真冬と真夏日以上の気温の日には際立って少ないことも田舎暮らしを通して知った。あまりうれしくはないが、冬が終わると活動的になり始めるマダニに春の訪れを実感する。マダニの餌食になるのは哺乳類だけでなく爬虫類や鳥類もだ。冬ごもりが明けて半月ほどのダイアモンド・パイソン(diamond python)というニシキヘビの頭に、吸血して大きく膨れたマダニが付いていたのも見た。人間だけがかまれるわけではないというのはささやかな慰めかもしれない。
大雨の日のユーカリの泡
乾いた季節の後に雨が降ると、一部のユーカリの木の幹からは白い泡が出る。豪雨なら、泡は滝のように流れ落ちてくる。
激しく打ち付けるような雨の中、どうしても外に出なくてはならない用事があり、レインコートに身を包んで森の入り口を通りがかった時に初めてそれを見た。黒々とぬれたユーカリの幹と、その上の真っ白な泡のコントラスト。洗濯機の中の洗剤のような多量の泡が樹木に付いている光景に自分の目を疑った。高い位置から木の根元に向かって流れ続ける泡は、地面の水たまりへと流れ込んでいく。大雨の中で森を見回すと幾つもの幹の表面を泡が流れていて、ファンタジーの世界に迷い込んだような眺めだった。
後で知ったところによると、特定の種のユーカリは樹皮や葉にサポニンという物質を含んでおり、それが雨で溶け出して泡立つようだ。天然の界面活性剤ともいわれるサポニンは、虫や獣によるユーカリの食害防止に役立っている。木々の生きる知恵が雨の中で泡の姿になって現れ、幻想的な風景を作り出したのだと思うと感慨深い。
森のすぐ隣での田舎暮らしには驚きや発見が多く、身近な自然がまだまだ奥深い不思議を秘めていると気付くことは喜びでもある。まして日本という外国育ちの私はオーストラリアの自然については無知も同然。1つひとつの学びを童心に返ったように楽しんでいるところだ。
著者
七井マリ
フリーランスライター、エッセイスト。2013年よりオーストラリア在住