オーストラリアの自然の楽しみ方はサーフィンやキャンプなど数多くあるが、ただ緑の中を歩く「ブッシュウォーキング(bushwalking)」はその親しみやすさが魅力だ。固有種のシダの茂みやユーカリの森との距離が近い田舎はブッシュウォーキングの機会が豊富で、思い立った時に普段着のまま歩き出すこともできる。以前はアウトドアと縁遠かった私も、住まいの周辺や国立公園でのブッシュウォーキングがすっかり身近になってきた。(文・写真:七井マリ)
オーストラリアのブッシュを歩く

オーストラリアに来てから身近になった言葉「ブッシュウォーキング」は、日本語の「山歩き」に近い意味を持つが、歩くのは山に限らず緑のある平地でもいい。野山でハイキングやトレッキングをすることも、自然豊かな公園の中の整備された歩道や緑道を歩くことも、全てブッシュウォーキングの一語で表すことができる。「ブッシュ(bush)」という単語自体が、オーストラリアでは低木の茂みだけでなく野原から森までを広く指す。自然の中を歩くブッシュウォーキングは、老いも若きもが楽しむカジュアルで清々しいアクティビティーだ。
個人的には、「動的な森林浴」というイメージでブッシュウォーキングをとらえている。歩みを進めるごとに景色は変化し、木の葉や土の香りを嗅ぎ、鳥やトカゲの気配に驚かされ、微風や木漏れ日を頬に感じる。手を伸ばせば、ユーカリの幹の固さや滑らかさに触れる。緑の中を歩くうちに、いつの間にか自分自身がそこに溶け出して自然との境界がなくなり、拡張されていくような感覚になる。本来、自然と人間は隔てられたものでも対立するものでもなく、一続きの存在なのだと教えられている気がする。
家から5分の森の中へ

ブッシュウォーキングには、「休日の特別なアクティビティー」と「日常的な楽しみ」の両側面がある。サウス・コーストの田舎町で暮らす私には、後者のイメージが特に顕著だ。
隣人から、家の裏手の森に良いブッシュウォーキング・トラックがあるから案内しようかと誘われた時は、二つ返事でトレッキング・シューズを履いた。マダニ対策でジーンズの裾を靴下の中にたくし込み、虫除けスプレーをかけたら、家を離れて5分と経たずに鬱蒼(うっそう)とした森の中へ。高い樹冠が陽を遮るため夏でもひんやりとして、低木や草の緑色も涼やかだ。山ではないので勾配(こうばい)は少ないが、木々の間に開かれた獣道のような小径の多くは人が1人通れる程度の幅で、もし滑ったら2〜3メートル下の小川に転落しそうなエリアもある。足元に注意して進みながら自分の靴が落ち葉や枝を踏む音を聞き、ふと立ち止まった瞬間の静寂が心地良い。
落ちて折り重なった枝の隙間から、斜面の乾いた土とウォンバットの巣穴が見える。大人2人でも抱えきれきれない太さのユーカリの巨木は、おそらく樹齢100年以上だろう。見上げるとめまいがするほど高くそびえる幹に、フクロウやポッサムがすみ着きそうな大きな樹洞がある。その根本には葉が1枚もない変わった野生の花が咲き、オーストラリア固有種のランだよ、と隣人が言う。自然の中は目や心をとらえるものが多く、無数の命の息づかいに耳を傾けているうちにいつの間にか穏やかな気持ちになっている。
白い砂地の森を歩く

オーストラリア中に点在する国立公園や自然保護区の中にも、ブッシュウォーキングができる場所がたくさんある。住まいからアクセスが良いブーダリー国立公園(Booderee National Park)はシドニーからなら南へ約3時間の立地。ジャービス・ベイ(Jervis Bay)の広大な湾岸エリアの自然の中に、いくつものウォーキング・トラックが伸びている。真っ青な海が見えるビーチ沿いの森のコースもあれば、崖の上へと続くコース、湖畔を一周するコースなどさまざまだ。辺りはまるで楽園のようなのどかさで、野生のインコやオウムのつがいが空を横切り、その下でカンガルーやワラビーが跳ねる。
国立公園内の植物園にあるコースの一部は、海からやや離れてはいるが一帯が浜辺に似た白い砂地の森だ。平坦でも水はけの良い土壌に、固有種のバンクシア(banksia)やグラス・ツリー(grass tree/和名:ススキノキ)など、オーストラリア固有の個性的な植物が育っている。
固有の植生は、固有の昆虫や動物が生きる環境でもある。初夏にはそこで、レッド・ブル・アント(red bull ant)と呼ばれる獰猛で大きなアリを見かけた。小径の傍らには鶏卵入りの捕獲檻が仕掛けられていたので、毒ヘビか外来種のキツネがいたのかもしれない。注意は必要だが生き物の生態や正しい対応方法への興味は尽きず、ブッシュウォーキングをしながらまだ知らない種と出合うたびに、自分の世界が広がっていく。
帰宅後、靴底の溝に残った白い砂粒に気付き、次回また同じ場所を歩く日が待ち遠しくなった。
トレッキング・シューズで踏み出せば

隣人や友人にブッシュウォーキングに誘われたら、どんな準備が必要な場所かをまず確認する。普段使いのスニーカーでいいか、それともトレッキング・シューズを履いたほうがいいか。30分の散歩道もあれば、片道3時間のトレッキング・コースもあるからだ。
手軽なコースが豊富で、日常の散歩の延長として始められるのがオーストラリアのブッシュウォーキングの良いところだろう。高難易度のコースやキャンプを伴う場合でなければ特別な装備はいらず、すれ違うブッシュウォーカーの服装はTシャツにジーンズのような普段着だ。といっても、人口の割に広い国でブッシュウォーキングができる場所も多いせいか、すれ違う人の数はごくわずか。日本ではトレッキング・シューズを履いたことすらなかった私がブッシュウォーキングを好きになったのは、ゆったりとしたオーストラリアの環境のおかげかもしれない
ブッシュウォーキングが身近であるのと同じく、野生の動植物や生態系そのものも日常と地続きの存在だ。森を歩くたびに、木の幹を撫で、草花の色形を目に焼き付け、名前や特徴を調べては覚えていく。歩いて何かを知るごとに自然との距離が一歩ずつ縮まるような、そんな気がしている。
著者
七井マリ
フリーランスライター、エッセイスト。2013年よりオーストラリア在住