人は、生きている間、絶えず未来のことを考え続けています。今日の予定、今週の課題、来月の約束、数年後の夢や不安。気付けば、まだ訪れてもいない時間のために多くの意識を使い、「今」を味わう余白は驚くほど少なくなっています。それでも私たちは、「生きるとは何か」「死とは何か」という誰にも避けられない問いについて、日常の中で深く考える機会をほとんど持ちません。
けれど、生と死を見つめるということは、暗い行為ではなく、「今」をより鮮やかにするための視点なのだと思います。私たちは、生まれた瞬間の記憶もないまま世界に立ち、そしていつか予告なく去っていきます。この仕組みは千年前も百年前も変わらず、1度きりの人生という公平なルールの上に成り立っています。
そして、人生のどこかで人は必ず、「昨日まで笑っていた誰かが、もういない」という現実に触れます。家族でも友人でも恩人でも、別れはいつも唐突で、静かで、受け止めるにはあまりに理不尽です。確かにそこにあった日常が突然途切れた瞬間、命のはかなさは強い実感を伴って迫ってきます。
積み重ねてきた迷い、将来への焦り、「自分は間違っていないか」という揺らぎさえも、その前では小さな影のように見えてしまいます。人生は思っている以上に短く、「もう終わりなのか」と驚くほどかもしれません。
だからこそ、死があるから今が光ります。もし永遠に生きられる世界が訪れたら、人は本当に幸せになれるのでしょうか。終わりのない時間は、生の密度を薄め、今日を大切にする感覚を弱めてしまう気さえします。
季節の移ろいは、有限性を静かに思い出させてくれます。流れていく雲や風の冷たさのように、今日という1日も戻らぬ時間として積み重なっていきます。死は必ず訪れます。しかしそれは、生を深く味わうスイッチでもあるのです。限りがあるからこそ人は愛せて、終わりがあるからこそ始まりを喜べて、別れがあるからこそ出会いが宝物になります。
完璧でなくていい。ただ「生きている」という確かな手触りを胸に置ける1日であれば、それだけで十分なのだと思います。どうか、今日という1日が静かにあたたかく積み重なっていきますように。そして明日もまた、同じように訪れるとは限らない今日を選び取り、小さな1歩を踏み出せたなら、それもきっとささやかな奇跡なのだと思います。静かな鼓動を聞きながらそっと胸にも。
このコラムの著者

教育専門家 福島 摂子
教育相談及び、海外帰国子女指導を主に手掛ける。1992年に来豪。社会に奉仕する創造的な人間を育てることを使命とした私塾『福島塾』を開き、シドニーを中心に指導を行う。2005年より拠点を日本へ移し、広く国内外の教育指導を行い、オーストラリア在住者への情報提供やカウンセリング指導も継続中