シドニーから南へ3時間の小さな田舎町は、森に囲まれた静かなエリアにあって人口は少なく、普段は治安の面で不安を感じることはほぼない。しかし一時、この地域で泥棒騒ぎがあった。ある夜遅くに私の住まいの周りでも起きた小さな異変は、治安への意識と地域の人同士のつながりの大切さを再確認するには十分な出来事だった。(文・写真:七井マリ)
オンラインで知った物騒な話題

ソーシャル・メディア上にある地域コミュニティーの情報交換用のオンライン・グループは、街角の掲示板にメモ書きを貼り付けるように参加者が自由に投稿できて便利だ。迷い犬の情報、スモール・ビジネスの宣伝、造園や電気工事の業者探し、地域のイベント告知などの投稿が町の平和を物語る。閲覧専門ではあるが私も移住直後から参加し、地元の情報にかなり助けられている。
ある時、自動車やバイクなどの盗難被害を知らせる投稿が2カ月以上にわたって相次いだ。投稿者は皆、窃盗グループへの注意と夜間の車やガレージの施錠を呼び掛けていた。隣町での被害についてのコメントや、路肩で盗難車が燃やされたことを知らせる投稿も散見した。ある人は、深夜近くに自宅の敷地に入ってきた人影を見たと書いていた。通常、街灯も家も少なく真っ暗な夜の田舎町を歩き回る人はいない。いずれも警察に通報済みのようだったが問題解決には至っておらず、警察が運営するソーシャル・メディアのページでも警戒を促す情報がたびたび出た。
一番近くに住む隣人とばったり会った日、世間話という名の注意喚起としてその話題が挙がった。隣人も同じオンライン・グループから情報を得ている。何かあったら知らせ合おう、と立ち話を終えたが、まさにその次の日に不審な出来事が起きるとはこの時は思ってもみなかった。
人間か野生動物か、奇妙な物音

翌日、風も月もない静かな夜に、たまたま1人で家にいた私はスピーカーから流れる音楽を聞いていた。時刻は間もなく夜11時。1曲が終わり、次の曲に移るまでの短い静寂の間に、外からの聞き慣れない物音に気付いた。少し離れた所で地面に落ちた枝葉を踏む人間の足音と、男性の話し声に似た響きだ。森に囲まれたこの場所は公道から奥まっていて、人が誤って迷い込むはずはない。声は低く電話で話しているような調子に聞こえた気がしたが、絶対に人の声だと断定するのは難しいくらいの距離があった。
反射的に音楽の再生を停止し、野生動物が立てる物音と聞き間違えたのではと考えた。カンガルーは夜の間も森を跳び回り、ポッサムはよくうなり声を上げる。息を殺して耳を澄ましたが、何も聞こえない。人間が立てた物音ではないと思いたい半面、もし人間だったらという考えも膨らんで鼓動が速くなる。隣人が暗い夜に森を散歩することなどあるだろうか。しかし問題はそれが隣人ではなかった場合だ。
不安なままでいるよりはと考え、一番近い隣家のカップルに宛ててテキスト・メッセージを送った。外で人の話し声がしたように思うが今あなたたちは森を歩いているか、と。瞬時に届いた返事は「No」だった。今すぐ見に行くと言ってくれた隣人に、私も合流しようと身支度を済ませて懐中電灯を手にした。間もなく遠くから聞き慣れた隣人の声が「Is anyone out there?(誰かいるか?)」と鋭く牽制(けんせい)するように言うのを聞き、知らぬ間に緊張していた体が緩むのを感じた。
暗闇の中で親切な隣人カップルと落ち合い、私が聞いたのが本当に人の物音だったか確信はないことも伝えた上で、念のため手分けして庭や森の近くを見回った。しかし何も見つからず、野生動物だったかもしれないということで一旦落ち着いた。
乗り捨てられた盗難車

隣人が翌朝、すぐ近くで不審な白い車を発見した。乗り捨てられたらしいその車は田舎に多いピックアップトラックで、オーストラリアではユート(ute)と呼ばれる。警察を呼んだところ、50キロほど離れた町で盗難届が出ている車両と判明し、最終的に指紋採取などのために牽引されていった。
前夜の物音と乗り捨てられた盗難車の関連を示す証拠はない。想像だが、窃盗などに使った盗難車を乗り捨てに来た犯人グループが、更に目ぼしいものを求めて辺りをうろついた後、諦めて別の車で去ったというストーリーならつじつまが合う。後から知ったところによると近隣では、車のキーを盗む目的で玄関の窓を壊す、家に侵入してパソコンやブランド品を盗るといった犯行も行われていた。私も、もし鉢合わせでもしていたらと思うと穏やかでない。
この時点で町の不穏な状況は変わらずとも、個人的に2つだけ良かったことがあった。1つは、前夜に隣人に連絡をしたのは正解だったと思えたこと。私も隣人も危険な目に遭わず、何も盗まれず、車を燃やされるような事態に発展しなかったのは、隣人と共に住民の存在を強調できたことが功を奏したのかもしれない。もう1つ良かったことは、犯人グループがここを再訪する可能性は極めて低いということ。盗むようなものは何もなく、ユーカリの木々と有袋動物ばかりの場所だと分かったはずだ。
その後、何事もなくても不安な時は連絡して、と隣人からは思いやりに満ちたメッセージが届いた。別の隣人は一連の出来事を知るとすぐさま、防犯カメラ代わりにと野生動物の観察用の設置型赤外線カメラを貸してくれた。
カメラ設置と、事件のその後

借りたカメラは、動くものに反応して自動で静止画を撮影できるというものだ。バッテリー式なのですぐに導入できて不審者対策に使えるだけでなく、もちろんカメラ本来の用途である野生動物も撮れる。設置以来、昨夜はどんな鳥や獣の姿が写ったかと楽しみになり、例の事案から気が紛れるという予期せぬ効果もあった。
犯人グループが逮捕されたのは、それから半月も経たないうちのことだった。私が住む町だけでなく広いエリアで窃盗や強盗を重ねていたらしい。20年以上この地域に住む近隣住民は、泥棒騒ぎなど今まで起きたことがなかったと言う。オーストラリアの都市部より犯罪発生件数が少ない地域だが、田舎とはいえ徐々に増えゆく人口などが治安に影響してきているのだろうか。
犯人グループの逮捕を境に、地域コミュニティーのオンライン・グループでは盗難に関する新規投稿はぴたりと消えた。それまで通り、ニワトリの譲渡やヨガ教室の生徒募集などの投稿が並ぶのを見ると、田舎町の暮らしに平穏が戻ったことを実感する。人は時に人に害をなすが、そのトラブルの中で頼れるのもまた人だと身にしみた一件だった。
著者
七井マリ
フリーランスライター、エッセイスト。2013年よりオーストラリア在住