かつてシドニーの都市圏からサウス・コーストという地方部への転居を決めた時、人からよく尋ねられたのが「仕事」についてだった。都会と違って地方は働き口が少なく仕事に困るのでは、というイメージは確かにあるが、田舎町に移って自宅で働きながら3年以上が経った。地元の人びとの働き方からは自分と仕事との関わり方や生き方そのものを考えさせられ、ここ最近は新しい挑戦にも気持ちが向いている。(文・写真:七井マリ)
森に囲まれた自宅で働く

ダイニング・テーブルでの仕事の合間にお茶をいれながら、バードバスに集まる鳥の姿を窓越しに眺める。その向こうのユーカリの木々の柔らかい色合いが連日のパソコン作業で疲れた目に優しく、納品と庭仕事を終えたら森を散歩しよう、と頭の中で段取りを付ける。
自宅を仕事場とする働き方に切り替えたのは、現在のサウス・コーストの住まいに移る数年前のこと。インターネットに接続できればどこでも働けるという状態が、私とパートナーの田舎暮らしへの移行を後押しすることにもなった。パートナーの方は都市圏で仕事を持ち、田舎と行き来しながらの生活だ。都市部と地方部の2拠点生活者はこの辺りでは珍しくないようで、港湾都市のウロンゴン(Wollongong)まで約1.5時間、ビジネスの中心地のシドニーまで約3時間という立地ゆえだろう。
移住前は、もし田舎の通信環境が悪かったらと気を揉んだが、衛星インターネットが必要なほどの僻地ではない。とはいえ、年2回ほどは暴風雨による突発的な停電でインターネットが数時間不通になり、仕事の締切を前に冷や汗をかいたことも。思い返せばシドニーでもそんなことがあったが、今のところなんとかオンライン・ミーティングにも参加できている。
地元の人たちの勤め先とスモール・ビジネス

私が暮らす小さな田舎町は、家の数が少なく商店街もない。勤め先というと近隣の町まで出るのが一般的なようで、不動産会社に勤める人や美術館のキュレーターをしている人の話を耳にする。車で30分〜1時間も走ればやや人口の多い地域があり、田舎といえど総合病院やショッピング・モール、文化施設、大学のキャンパスまでがそろっている。
試しに求人サイトで片道1時間以内のエリアをのぞいてみると、都会ほどの件数ではないものの、ホスピタリティー、医療、介護など多様な業界の募集があった。海沿いに観光地が点在するサウス・コーストの土地柄、宿や飲食店といったサービス業の求人の割合が高いようだ。地方部には地方部の働き方があるということだろう。
近隣のビーチ・タウンのカフェやベーカリーは旅行客の多い季節が繁忙期で、たいていその後に1〜2週間ほど休暇に入る。遠方からの顧客にも地元の人びとにも愛される店での、そんな働き方も魅力的だ。
雇われるのでなく、個人でビジネスを経営するという働き方もある。観光エリアから外れた田舎町でも看板を見掛けるのは、自動車修理業に内装業、造園業、動物病院、家畜の飼料店、養蜂・種苗農家など。口コミで知る会計士や美容師、水周りや電気などの施工・修理業者なども頼れる存在だ。ソーシャルメディア上では、ヨガや絵画の教室、ケータリング、配車サービスなどのビジネスを宣伝する人もいる。見えにくいだけで、自営業者は案外多いのかもしれない。
それぞれの働き方・生き方の選択肢

ソーシャルメディア上の地域コミュニティーのページを開くと、この辺りに移住予定の人からの書き込みもある。「家が決まったがフルタイムの仕事が見つからない」「仕事が決まりそうなので引っ越してきたいが家が見つからない」という投稿に、地元住民らしきユーザーが親切にアドバイスをする。住居も求人も限られた地方部で、両方がタイミングよく見つかるかは運次第だ。同ページでは「これから移住して在宅ワークを続けたいが、通信環境はどうか」という質問もあり、「△△通りはいまいちだが◯◯通りは良い」といった具体的な回答が多く並んだ。
現役引退後を見据え、セミリタイアして海と森に近いこの辺りに移り住んだ人もいる。のんびりと静かな時間を求めているのかと思いきや、社会貢献にアクティブな人が多いことには驚かされる。地域振興のためのイベント運営、オーストラリア固有の生態系の保全活動、歴史的な文化財保護のための教育活動など、長くこの辺りに住む人も含めて決して少なくない数のシニア世代が使命感を持って動き回っている。報酬を伴わないボランティアでも、地域や環境の維持のためにどれもなくてはならない仕事だ。中には現役の会社員並みどころか休みがないくらい活動的な人もいて、新しい人材の育成にも余念がない。
社会の中で果たす役割の価値は、利益や報酬と比例するとは限らないのだと、彼らを見ては痛感する。仕事という言葉を聞く時、つい個人の生活の糧を得る労働のイメージが先行しがちだが、時間をお金に引き換えることに人生を費やすだけでは面白くない。社会や自然にも目を向けて広い視野で「仕事」をとらえ直していけたら、豊かな人生の使い方ができそうだ。
自然から得たものを書き留める

森に囲まれた静かな田舎の自宅の環境は集中力を要する仕事向きでありながら、窓の外に目を向ければ発見と刺激に事欠かない。気温の高低によって活動的になる蝶の種類が異なることに気づき、その生態の多様さこそが生存戦略なのではと仮説を立ててみる。温かい季節だけこの辺りにいるカワセミを見つけ、生態を調べては移動と暮らしの関係性に思いをはせる。自然の中で起きていることを人間に照らして思考の足がかりにする時、自然科学は哲学のようでもあって、その1つひとつが思わず書き留めておきたくなることばかりだ。
考えることと書くことがつながりやすい状況は、仕事の中身にも影響するようになった。日本で自著を出版する機会を得て、子ども時代の一風変わった教育体験から現在のオーストラリアでの田舎暮らしまでを、『高校に行かないと決めた14歳の日から』という題で1冊にまとめた。自分が生きる社会や自然環境に、書く仕事を通して何かを還元できたらという挑戦心もある。
そうはいっても、アウトプットすることや誰かに何かを提供することだけが仕事とは思わない。家事や家庭菜園の管理、周りの自然への配慮なども、私にとって等しく大切な仕事だ。田舎の自然の中での毎日は私に、働き方や生き方にじっくり向き合う時間を与えてくれている。
著者
七井マリ
オーストラリア在住のエッセイスト。日本での子ども時代の教育体験から海外移住後の田舎暮らしまでを綴ったエッセイ本『高校に行かないと決めた14歳の日から』(文芸社)を2026年2月に上梓