メルボルンはかつて世界一の金持ち都市となり「マーベラス・メルボルン」と呼ばれた栄華の時代があった。メルボルンを首都としたオーストラリア連邦政府ができる1901年までの50年間、メルボルンっ子はいかにして驚異のメルボルンを作り上げていったのか――。
第60回 クック船長とメルボルン植物園
1768年、英国海軍本部と英国科学協会(ロイヤル・ソサエティー)は、ジェームズ・クック船長に南太平洋への航海を命じた。地球上の離れた2地点から金星を同時刻に観測し、天文緯度の差から地球と金星の距離を測るという壮大な天体観測計画であった。表面上は天体観測であったが、真の目的は伝説の大陸、テラ・オーストラリスの探査であった。
クック船長はタヒチで天体観測を行った後、帆船エンデバー号で未知の太平洋を南西へ航海し、70年4月19日に豪州南西海岸(シドニー)に到達。記録が残された西欧人の最初の調査となった。
クック船長はシドニー上陸の最初の場所を、エンデバー号の乗組員で植物学者のジョセフ・バンクス男爵とダニエル・ソランダ博士にちなんで植物学湾(ボタニー・ベイ)と命名した。
英国王室の庭園としてキュー王立植物園(世界遺産)が1759年に設立され、ジョージ三世国王はジョセフ・バンクス卿に命じて、世界中から植物を集めさせて品種改良を行った。英国は世界中にプラント・ハンターを派遣して植物を収集し、植民地のプランテーションに植物種子、種苗を送り込んで大量生産を図った。アマゾンの天然ゴムをマレー半島へ、中国の茶をインドのダージリン地方やスリランカへ、マラリアの特効薬キニーネをペルーからインドへ、などであった。古くはチョコレート、タバコなども西欧を魅了した。当時の植物は今日の石油や天然ガスと同様の国際戦略物質であった。
1836年1月にシドニーに到達したチャールズ・ダーウィンによるビーグル号の世界航海なども英国の国策の一環であった。
メルボルン・ロイヤル植物園は、ビクトリア植民地チャールズ・ラトローブ初代総督が1846年にヤラ川南側に38ヘクタールの植物園用地を確保したことに始まる。シドニー王立植物園に遅れること30年であった。キュー植物園で長く勤務し、ジョセフ・バンクス卿の薫陶(くんとう)を受けたアラン・カニンガムとリチャード兄弟がシドニー植物園の運営に関与している。
メルボルン植物園の初代園長フェルディナンド・ミューラーは、シドニー植物園やキュー植物園と密接なコンタクトを持って運営を行った。メルボルン植物園はヤラ川河畔に立地する人気観光地であるが、英国の世界制覇の夢の一翼を担う存在であり、クック船長やダーウィンの時代を偲ぶことができる。