メルボルンはかつて世界一の金持ち都市となり「マーベラス・メルボルン」と呼ばれた栄華の時代があった。メルボルンを首都としたオーストラリア連邦政府ができる1901年までの50年間、メルボルンっ子はいかにして驚異のメルボルンを作り上げていったのか――。
第50回 ビクトリア最初の入植地ポートランド
ビクトリアで最初の入植は、メルボルンより1年早く南部沿岸、ポートランドにて始まった。1830年代に鯨漁港として開設され、40年代から放牧と羊毛業、漁業で繁栄し、現在は観光の町である。
ポートランド湾は、英国が派遣した海洋調査帆船レディ・ネルソン号のジェームズ・グラント船長の探検隊が、1800年にバス海峡を初めて航海し、豪州南部海岸線を調査した際に命名された。名前は、英国首相を2度務めたポートランド侯爵に由来する。
シドニーのNSW植民地政府により、ビクトリアへの入植は禁止され、未開拓であったが、捕鯨漁師により十分に調査されており、いつでも移住できる状態にあった。
32年頃、当時はヴァン・ディーメンズ・ランドと呼ばれていたタスマニアの捕鯨船船長ウィリアム・ダットンは、ポートランドにセミクジラ漁の詰め所を設営した。更に、移民に備えて羊の放牧場を探していた。
24歳のエドワード・ヘンリーは、34年11月19日にロンセストンから34日の航海を経て、家畜や家財を積んでポートランドに到着して、ビクトリアの最初の住人となった。メルボルンに最初の植民隊が到着したのは35年8月30日であり、エドワード・ヘンリー家族のポートランド移民の方が、10カ月ほど早い。
メルボルンやポートランドへの移民は、NSW植民地政府の許可を得ない不法なものであった。
捕鯨で採れたセミクジラの油やひげはタスマニア経由で英国へ輸出された。セミクジラのひげは長くて柔軟で弾力があることからさまざまな製品の素材に用いられ、高値で売れたためにセミクジラは乱獲された。タスマニアのロンセストンから多くの住民が多数の建材、釘、ペンキや大工などを伴って、移民してきた。タスマニア植民地様式の建築物を作ったが、現在も多くが残っている。
ポートランド港は、アデレードとメルボルンを結ぶ航路の中では最も水深が深い良港で、荒れるバス海峡の中で安全な避難港として南岸部最大の港として栄えた。
ポートランドには入植初期の建物などがたくさん残っており、ビクトリア最古の住居、小学校、税関、最古の免許を持つパブ、再現されたケーブル・トラム、ケープ・ネルソン灯台など観光名所が多く、グレート・オーシャン・ロードの終点地として訪問する価値は十分に高い。
文・写真=イタさん(板屋雅博)
日豪プレスのジャーナリスト、フォトグラファー、駐日代表
東京の神田神保町で叶屋不動産(Web: kano-ya.biz)を経営