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メルボルンの街造り/マーベラス・メルボルン

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 メルボルンはかつて世界一の金持ち都市となり「マーベラス・メルボルン」と呼ばれた栄華の時代があった。メルボルンを首都としたオーストラリア連邦政府ができる1901年までの50年間、メルボルンっ子はいかにして驚異のメルボルンを作り上げていったのか――。

第53回 メルボルンの街造り

ホドル設計の30メートル道路、フリンダース・ストリート
ホドル設計の30メートル道路、フリンダース・ストリート

 メルボルンの名前は、英国メルボルン首相に由来し、シドニーのNSW植民地リチャード・バーク総督によって命名され、ビクトリア・ポート・フィリップ地区(メルボルンの旧名)ヤラ川北側の居住地として、1837年3月29日付けで英国の官報に記載された。

 メルボルン市内の通りは、同年にロバート・ホドル植民地政府監督官によって設計され、ホドル・グリッドと呼ばれた。屈折したヤラ川や土地の起伏の関係で、正確な東西南北方向に対して8度の傾斜を持っている。

 ホドルは、バットマン・ヒル(現サザンクロス駅周辺)をシティCBDの西端と定め、メルボルンの測量基準点とした。ホドルの測量地図は同年に完成し、バーク総督によってメルボルン都心部CBDグリッド・プランは承認された。

 当時の距離の測り方は、チェーンを巻尺代わりに使い、1チェーンは20メートルであった。ホドルはメルボルンの東西方向の大通りストリートを1.5チェーン、リトル・ストリートと呼ばれる小さな通りを0.5チェーンとした。

測量起点だったバットマン・ヒル(サザンクロス駅)

測量起点だったバットマン・ヒル(サザンクロス駅)
メルボルン文化を映し出すセンター・プレイス横丁

メルボルン文化を映し出すセンター・プレイス横丁

 フリンダース、コリンズ、バーク、ロンズデールは、幅が30メートルの大通りで、小さな通りであるリトル・フリンダース、リトル・コリンズ、リトル・バークなどは幅が10メートルである。ストリートは一般の人が通る道、リトル・ストリートは業者用の通りとして、消費活動と物流をはっきりと分ける近代的な都市設計プランである。メルボルンの開発が進み、政府売却土地(クラウン・ランド)は分割され、更に再分割された。

 ホドルのグリッド配置図には、リトル・ストリートよりも小さな私道であるレーンやアレイの名前は見当たらないが、1850年ごろには、CBD各地に発生していた。レーンもリトル・ストリートと同様に、業者や店舗の物資輸送、工場、作業所、倉庫、排泄物や廃棄物の輸送などの都市機能の重要な静脈部分を担った。

 フリンダース・レーンの名前がリトル・フリンダース・ストリートに変わって使われるようになり、売春街だったステファン・ストリートは1888年のメルボルン万博開催の際にエキジビジョン・ストリートと改名された。

 現在は、使用料が比較的安い横町には多くの芸術家が集まり、新進アーティストの作品展示場、芸術家やキュレーターに無償でスペースを貸し出す現代美術ギャラリー、映像芸術、ビデオ・アートなど独自の作品発表の場として利用され、メルボルン独特の文化となっている。

このコラムの著者(文・写真)

イタさん(板屋雅博)

イタさん(板屋雅博)

日豪プレスのジャーナリスト、フォトグラファー、駐日代表。東京の神田神保町で叶屋不動産(Web: kano-ya.biz)を経営。

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