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幻の植民地、ソレント/マーベラス・メルボルン

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 メルボルンはかつて世界一の金持ち都市となり「マーベラス・メルボルン」と呼ばれた栄華の時代があった。メルボルンを首都としたオーストラリア連邦政府ができる1901年までの50年間、メルボルンっ子はいかにして驚異のメルボルンを作り上げていったのか――。

第58回 幻の植民地、ソレント

ソレント/クインーズクリフ往復フェリー
ソレント/クインーズクリフ往復フェリー

 豪州におけるシドニーに次ぐ2番目の植民地建設を目指して、デビッド・コリンズ大佐を隊長とするオーシャン号とカルカッタ号の2隻の移民帆船隊が英国を出発、1803年10月10日、ビクトリア(当時はNSW植民地ポート・フィリップ)南部の半島海岸に上陸した。後にソレント植民地と名付けられ、現在はメルボルン湾の1番南側で湾の出入り口近くに位置する観光地として、また対岸にあるクイーンズクリフへのフェリーの発着所として知られている。

 467人の移民団は、299人の囚人(男性223人、女性43人、子ども33人)と、英国海軍軍人168人であった。囚人は万引きなど軽微な犯罪が大半で、子どもなどは玩具を盗んだ程度で流刑になっている。囚人の中には、後にメルボルン創設者の1人となるジョン・フォークナーや、メルボルンの西部で33年もアボリジニと共に暮らしたウイリアム・バックレイもいた。

 ソレントでは結婚式や葬式、出産、水道の供給が行われ、学校、石切り場、郵便局、病院、教会、墓地、裁判所が造られたが、全てがビクトリアでは初めてのことと記録されている。

 ところが、モーニントン半島の先端部分に位置するソレントには高い山がなく、水道供給用のダムの建設は不可能であった。また、住宅などの建造物の建設用の材木を供給する森林も、決定的に不足した。更に牧畜農業用地の平原も限られていた。

モーニントン半島は水、材木、土地が少ない

モーニントン半島は水、材木、土地が少ない
半島先端にある奇岩ケープ・シャンク

半島先端にある奇岩ケープ・シャンク

 コリンズ大佐はジェームズ・タッキー補佐官に命じ、メルボルン湾を再調査したが、良い報告は得られず、結局、豪州第2の移民団は1804年5月20日にソレントから撤退するに至った。

 その後、コリンズ隊長と植民団はタスマニアに移動し、ホバートの町を建設。コリンズ大佐は後にタスマニアの初代総督となった。

 ちなみに、1788年1月26日に、軍人212人、囚人男女約750人のアーサー・フィリップを総司令官(初代NSW総督)とする11隻の英国の豪州への初めての囚人移民船団(ファースト・フリート)がシドニー湾に到着したが、コリンズ大佐は移民団の主要メンバーであり、法務官としてフィリップ総督の信任が厚かった。コリンズ大佐は、メルボルンの目抜き通りであるコリンズ通りにその名を残している。

 この失敗により、ビクトリアの開発は、タスマニアのロンセストンの、ジョン・フォークナー(前述)による違法植民が1835年に実施されるまで、30年ほど遅れることになった。

このコラムの著者(文・写真)

イタさん(板屋雅博)

イタさん(板屋雅博)

日豪プレスのジャーナリスト、フォトグラファー、駐日代表。東京の神田神保町で叶屋不動産(Web: kano-ya.biz)を経営。

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