メルボルンはかつて世界一の金持ち都市となり「マーベラス・メルボルン」と呼ばれた栄華の時代があった。メルボルンを首都としたオーストラリア連邦政府ができる1901年までの50年間、メルボルンっ子はいかにして驚異のメルボルンを作り上げていったのか――。
第59回 メルボルンの魂、ブルーストーン
ブルーストーンは、メルボルンの石畳みの路地舗装材、主要な建物の土台部分の基礎材や外壁材として多く使用されている。例に挙げると、州議事堂、メルボルン刑務所、旧財務局、タウン・ホール、セントポール大聖堂、GPO中央郵便局、フリンダース駅など限りがない。
ブルーストーンはビクトリア州の南西部に広がる洪積世の玄武岩質溶岩のことで、同州の玄武岩平原は世界3番目の面積を誇る。アボリジニはブルーストーンを8000年前からウナギ取りの仕掛けや石材製家屋に使用していた。
メルボルン市内のフィッツロイ・ガーデンで最初に採掘され、カールトン、クリフトン・ヒルでも1835年~40年代に開発された。重くて輸送は困難、硬くて加工が難しく、表面が暗くて不人気。40年代までは建物の土台など教会と商業建物で使用された程度であった。
メルボルンに到着した多数の帆船によって、帰りの空船の重量バランスを取るバラスト用に積み込まれたのが、ブルーストーンのこの時期の最大用途であった。英国ロンドンの道路舗装材として使用されたが、深い青みを帯びたブルーストーンは現地で人気を集めた。
ゴールド・ラッシュ期からは安くて豊富な人気の建材となり、表面加工や曲線を要求しない建物に普及し、専用倉庫も増加した。
重量がある石材を切り出して運んだのは囚人の労働力であった。クリフトン・ヒルの仕切り場では、コリンウッド刑務所(現ノース・カールトン小学校)の囚人が切り出し、ブルーストーン・カレッジの愛称を持つペントリッジ刑務所の外壁材が1851年に建設された。
メルボルン近郊のフッツクレイには多数の石切り場があり、石材の町として知られ、男性住民の多くは石切り労働者として働いた。当時の石切り場では黒色火薬の爆発物を使用していた。鋼鉄製手動ドリルで穴を開け、パウダー・モンキーと呼ばれる火薬係が爆発物を穴に詰めてヒューズに点火した。パウダー・モンキーの役割は、非常に危険で石切り場の中で最も給料が高かった。ブルーストーンという名称は当時、他地域の玄武岩と地元フッツクレイ産との違いを訴えるブランド・ネームである。
メルボルン市内の路地にあるブルーストーン石材ブロックに、石切りプロセスのドリル穴の痕跡を見ることができる。石材の表面に刻まれた刻印も見つけられるが、これは囚人労働者が自身の存在の痕跡として刻んだものである。