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【対談】日本とオーストラリア 更に深まるパートナーシップ/ブルース・ミラー氏

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日本とオーストラリア
更に深まるパートナーシップ

元豪州駐日大使
ブルース・ミラー
 ✕ doq®代表
作野善教

 日系のクロス・カルチャー·マーケティング会社doq®の創業者として数々のビジネス・シーンで活躍、現在は日豪プレスのチェア・パーソンも務める作野善教が、日豪関係のキー・パーソンとビジネスをテーマに対談を行う本企画。今回は、元駐日オーストラリア大使であり、現在は豪日交流基金理事長を務めるブルース・ミラー氏にご登場願った。
(監修・撮影:馬場一哉)

PROFILE

Bruce Miller AO

Bruce Miller AO
豪日交流基金理事長。1986年、外務貿易省に入省。首相内閣省、在日オーストラリア大使館政務担当公使、内閣調査庁副長官など要職を歴任後、2011~17年駐日オーストラリア大使を務めた。18年、第一生命ホールディングス顧問、同社のオーストラリア子会社であるTAL Dai-ichi Lifeの社外取締役に就任。同年、オーストラリア国立大学上級政策フェローに任命、オーストラリア勲章受章

PROFILE

さくのよしのり

さくのよしのり
doq®創業者・グループ·マネージング・ディレクター。米国広告代理店レオバーネットでAPAC及び欧米市場での経験を経て、2009年にdoq®を設立。NSW大学AGSMでMBA、Hyper Island SingaporeでDigital Media Managementの修士号を取得。移民創業者を称える「エスニック·ビジネスアワード」ファイナリスト、2021年NSW州エキスポート・アワード・クリエティブ産業部門最優秀企業賞を獲得

作野:外交官として日豪関係の発展に大きく寄与され、現在は、豪日交流基金の理事長として引き続き日豪関係の向上に向けてリーダーシップを発揮されています。ブルースさんの日本との強い結び付きがどのように生まれたのか、そのあたりのストーリーから話をお聞かせ下さい。

ミラー:日本を知ったきっかけは、私がまだ5~6歳のころに祖父の妹たちが日本について話をしてくれた時にさかのぼります。彼女らは1930年半ばにクルーズ船に乗り、アジア諸国を回り、その際日本に立ち寄ったと話していました。

作野:戦前のことですね。

ミラー:はい、そうです。それが私の日本との最初の出合いでした。その時に聞いた話が非常に印象に残っていたようで、数年前に実家で書類を整理していたら、私が7~8歳と小さい頃に日本について書いた物語が出てきました。その後、私にとって大きなターニング・ポイントとして覚えているのが父の言葉でした。「フランス語やラテン語を学ぶよりも、アジアの言語を学んだほうがいいんじゃないか」と言われたのです。

作野:お父様はどのような意図でそうおっしゃったのでしょう。

ミラー:アジア・太平洋地域の一角ということからオーストラリアの将来のためになるなど意図があったのかもしれませんが、父は海外を旅しませんでしたし、46歳の若さで亡くなりました。ですから、そのようなグローバルな視点からの発言だったかは分かりません。ただ、重要なのはその言葉が私に大きな影響を与えたということです。いつも話していることですが、親というのは自分が思ってもいないところで、子どもの行動に大きな影響を与えるものなのです。そんな中、初めて日本を訪れることになったのが17歳の時でした。日本の国際交流基金による研修プログラムと出合ったことで訪日がかないました。母がニュージーランド出身だったので、ニュージーランドには何度か行ったことがありました。ただ、なじみのない場所に行くという意味では、日本が私の初めての本格的な海外旅行体験でした。その後、シドニー大学に進学し、大学3年生の時に1年間日本の大学に留学しました。全ては偶然の「MEGURI AWASE(編注:インタビューは英語で行われましたが、ミラー氏が日本語で表現した言葉は本記事ではローマ字表記しています)」だったと思います。

作野:なるほど。いろいろな要素が少しずつ絡み合い、最終的に日本行きにつながったのですね。

ミラー:ええ、17歳の時に日本に行った際には、見るもの全てが初めてで他に比較するものがない分、非常に新鮮で刺激的でした。同年代の日本人に会い、英語を話すクラブに混ぜて頂いたりもしましたし、東京、京都、大阪、広島などいろいろな都市を回りました。このような体験は、若い人にとってその後の人生に大きな影響をもたらすと思います。この体験のおかげで、私は大学で日本語を勉強したいと思うようになったのですから。2週間だけでしたが大きなインパクトを受けました。

作野:初めての日本の印象はどのようなものでしたか。

ミラー:エキゾチックだなという印象もありましたし、都会の人混みにも驚きました。しかし、一番驚いたのは宿泊していた銀座のホテルを起点に散歩していた際、小さな「MACHI-KOUBA」をたくさん見掛けたことです。もともとそれらを見学することを目的にしていたわけではもちろんありませんでしたが、日本といえばパナソニックやトヨタなどのイメージがあるので、そのような小さな工場がたくさん存在していることにびっくりしました。

作野:日本独特のコントラストに驚かれたのですね。

ミラー:その通りです。世界を相手に高度に効率化された面と、一方で裏通りにある町工場のような小さな作業場といった面。これらはもちろん全て経済の一部です。また、その他にも仏教、寺院、神社を始めとした建築様式の多様性、予想していたよりもはるかに多様な美意識にも本当に驚かされました。

作野:同じものでも、見る人のバック・グラウンドによって見え方、そしてそれに対する考え方も変わりますよね。

ミラー:そうですね。異なる文化を見ることの価値は、同時に自分の国に戻ってきた時に、自分の国を異なる目で見ることができるという点にもあります。これは実はとても重要なことです。今まで当たり前だと思っていたものを新たな視点から見直すことができるわけですから。

作野:関西学院大学に留学されたそうですが、日本語は関西弁から入った形ですか?

ミラー:関西弁でした。今はもう残っていないと自分では思っているのですが、関西に行くと標準語で話していても、アクセントのパターンが変わるらしいです。「HITSUYO NI SEMARARETE」という感じですね。

テヘランでの下積み、パートナーとの出会い

作野:1986年に外務貿易省に入省し、キャンベラに行かれましたが、その後赴任先としては日本を希望しておられたのですか。

ミラー:いえ、当時私は外交官として日本以外の場所に行きたいと考えていました。

作野:どのような思いからでしょう。

ミラー:日本にはまた戻る機会があると思っていたので、最初の赴任先はどこか違う所にしたかったのです。中国や韓国に行って中国語や韓国語を学びたいとも思っていましたが、そうはならずイランの首都・テヘランに行くことになりました。1986~88年の3年間、テヘランの大使館で下積みを経験しましたが、非常に興味深く、また困難な経験でもありました。なぜならイラン・イラク戦争があったからです。そのような下積み時代を経て89年、テヘランからオーストラリアのキャンベラに戻り、オーストラリアの外務貿易商の中の国際法を管轄する部署で働きました。漁業法などを担当していたので、日本との関わりもありました。特に捕鯨問題ですね。その後、92年に一等書記官として日本の大使館に赴任し、4年間東京に滞在しました。

作野:バブル経済が崩壊し始めた時期ですね。当時、日本はオーストラリアに対してどのような役割を果たしていましたか。

ミラー:日本は1969年以来、オーストラリアの最大の貿易相手国でしたし、当時から人と人の関係は良好でした。貿易と経済が主で、当時は国防における協力関係などはほとんどありませんでした。その点においてはこの30年で大きな変化があったということです。世界が変わったということもありますし、日本が変わったということでもありますね。生活レベルで興味深いのは、当時の日本はシドニーやキャンベラよりもはるかに物価が高かったということです。

ミラー:当時の為替レートは1豪ドル59円くらいで、東京の中心部で夜、レストランに行くと驚くくらい高かった記憶があります。今は逆になっていますね。日本に行くと安いと感じますから。そんな中、1993年に現在のパートナーの幹男と出会いました。

作野:幹男さんとはどのようにして出会われたのですか?

ミラー:出会いは友人のディナー・パーティーでした。ただ、LGBTに関して、今ほど理解のない時代でしたから当時は慎重に行動していました。いずれにしてもこの出会いが今でも私の人生の重要な部分を占めていることは明らかで言うまでもありません。その後、幹男は私と一緒にオーストラリアに来ました。

作野:幹男さんは仕事をやめてオーストラリアに来る選択をされたわけですね。

ミラー:「KIYOMIZU NO BUTAI KARA TOBIORIRU」、そのような思いだと後ほど言っていました。

東日本大震災からのリカバリー

作野:その後も、立場を変えて何度も日本に滞在してこられました。日豪両国を股に掛けて活躍された、そのキャリアの積み重ねでいつしかオーストラリア政府から日本の専門家のように見られるようになったわけですね。

ミラー:ええ、そんな中まさに「SEITEN NO HEKIREKI」で、政府から駐日オーストラリア大使として日本に行くように要請されたのです。大使の任命は政府が行うものなので、当時の首相と外務大臣が私を指名したというわけです。2011年のことでした。

作野:なるほど。それは東日本大震災前のことでしたか?

ミラー:震災の前に話を頂き、私が新しい大使になるという発表が行われようとしていた矢先に地震が発生しました。前任者も大変な思いをしたと思いますが、私が到着した2011年8月、日本社会は震災に動揺していました。オーストラリアは救援活動に貢献しましたし、当時の首相は、世界の指導者の誰よりも早く、日本を訪れました。最初の役割は、トラウマを抱えている大使館スタッフを、元通りに回復させることでした。ただ、私は地震や津波、その後の混乱を経験していないわけですから、大切なのはスタッフの経験を尊重し、敬うことだと考えました。リーダーシップという観点から言えば、大きなチャレンジでした。その後、何人かのスタッフは政府からオーストラリア勲章を授与されました。困難な仕事を正当に評価してもらうことは非常に大切です。その上で「私たちは前を向いていなければならない」ということを優しく伝えるよう心掛けました。

作野:チーム全体を前に向かせるよう、尽力されたのですね。

ミラー:ええ、必ず前に進まなければなりませんから。私たちは、国として、大使館として、宮城県南三陸町との関係をまずは大切にしてきました。南三陸町は、私たちが救助隊を派遣し、復興支援を続けてきた場所ですから。また、飯舘村とも交流があり、福島県にも何度も足を運びました。

水素経済、捕鯨問題

作野:震災からのリカバリーでは、ミラーさんの異文化的な視点や経験も大いに役立ったのではないでしょうか。その他にもいろいろなチャレンジがあったと思います。

ミラー:私たちは価値観を共有し、利益を共有していますが、当然日豪間には課題も多くあります。全体のアジェンダを管理するにはとても時間が掛かりますし、コンセンサスに基づく意思決定にも時間が掛かるものです。ただ、日本の意思決定のスピードに関しては、しばしば課題として挙げられます。オーストラリア人はその点に関しては耐えなければなりません。大使館には双方の立場をそれぞれの国にしっかりと説明し、全てを円滑に進める手助けをする役割が求められます。

作野:日本とオーストラリアの両方に関わっている人にとって、これは共通した悩みだと思います。どのような手法を取っていたのですか?

ミラー:訪日する政府首脳には、日本と少しでも早い段階から協力関係を構築するよう繰り返し呼び掛けました。問題が何であれ、必要なことを達成するためには、早い段階から努力して協力する必要があります。物事を好転させるには非常に多くの努力が必要ですし、最後には見返りがあることを説明することも重要でした。その1つの例が水素経済です。日本では、2014~15年頃には、政府や企業などの内部で、今後数十年の水素エネルギーの計画や、新技術の試験的導入など、水素経済を検討するプロセスが確立されていましたが、オーストラリア政府、企業、各州政府からの賛同を得るには、かなりの努力が必要でした。

作野:いわゆる「根回し」のようなものですね。

ミラー:そう言えますね。日本の立ち位置をオーストラリア側に説明し、オーストラリア側に真剣に受け止めてもらうという課題、これは大きな挑戦でした。オーストラリアはまだ化石燃料に執着していましたから。しかし今ではそれが変わりました。ここまで至るにはかなりの努力が必要で、大変でしたね。また、捕鯨問題は難しいチャレンジでした。

作野:非常にセンシティブな問題です。

ミラー:はい、双方にとって大きな政治的な問題でした。そこで重要だったのは、両国間の草の根レベルでの強いつながり、一般の人びと同士のつながりだったと思います。お互いを理解し、草の根のつながりの重要性を再認識することで、政治的、経済的な関係がうまくいかなくなった時でも関係を安定させることができるのです。

作野:このような葛藤を経て、真の友情や関係性が芽生えていくのかもしれませんね。

ミラー:その通りですね。

強大化する中国、アメリカへの信頼度

作野:大使の任を全うされ、帰国後には第一生命ホールディングスの顧問職、また豪日交流基金の理事長にも就任されました。

ミラー:政府のために32年間働き、国への責務を果たしたという点で私はとても満足していました。時には困難なこともありましたが、やっていて幸せだったし充実していました。しかし、政府での活動を終えたことで新しいチャレンジをしたいと考え、新しい人生がまた始まりました。第一生命ホールディングスは世界中に11の子会社を持っているため、国際的なネットワーク・スキルを役立てることができると考えました。私の役割は経営陣をサポートするだけでなく、社外取締役として日豪双方の観点からものごとを捉え、経営陣の考えに疑問を投げ掛けることだと思っています。また、豪日交流基金は、予算は潤沢ではありませんが、日豪間の草の根の公共外交、文化活動に資金を提供する非常に重要な組織です。その重要な役割を通して両国の関係に貢献できることを大変うれしく思っています。

作野:今後の日豪関係の展望についてお聞かせ願えますか。

ミラー:オーストラリアと日本は、今後ますます緊密な関係となり協力し合うことになるでしょう。国際的な問題については、それが何であれ、両国は常にほとんど同じ立場を取っています。また、私たちは非常に似た視点を持っていると思います。議論の場ではよく戦略の違いについて語られがちですが、私は共通点について考えることこそ重要だと思うのです。違いは探せばいくらでも見つかりますが、同様に似ているところも探してみて欲しいと思います。両国の類似点は何かというと、オーストラリアと日本は、他の北米やヨーロッパの国々に比べて、社会的・経済的不平等が少ないという点です。また、どちらも犯罪件数が比較的少なく、多くの国と比較しても安全です。銃器への取り組み、予防接種の遵守率など、いずれも非常に高い水準にあります。また、日豪間の行き来が今後更に容易になるよう、例えば旅行保険に加入しなくても、お互いの国で医療機関を受けられるように、健康に関する相互協定などを結んで欲しいですね。イタリアやニュージーランドでは、海外旅行保険に加入しなくても、オーストラリア人は現地の病院を利用することができます。そのようなことを1つずつ実現していきながら、引き続き、経済を補完し合っていければと思います。また、自由貿易協定以降、急速に発展している農業関連事業も重要な課題だと思います。一方、世界に目を向けると厳しい部分も見えてきます。中国は更に強大になっており、より自己主張が強く、より攻撃的になっています。これは、私たちが対処しなければならない課題でもありますが、それによって日豪の関係性はより緊密になるでしょう。

作野:その通りですね。

ミラー:また、よりデリケートな問題かもしれませんが、アメリカの信頼性が以前ほど高くないという点も挙げられます。これは日豪両国にとっても大きなポイントです。1つの例として挙げられるのは、アメリカがTPPに参加しないと発表した時のことですね。これがもし10年前であったら、TPPは完全に崩壊していたと思います。しかし、実際にはアメリカが参加しない中でも、日本とオーストラリアはこれを頑張って乗り切りました。私たちは交渉で協力し合うことで、更に親密になりました。

作野:ある意味、より自立を意識するようになったわけですね。

ミラー:そうです。私たちは以前よりも負荷を分け合うようになりました。このような世界の変化を受け、私たちは周囲を見渡し、最も信頼できるパートナーが誰かを考えるようになりました。オーストラリアは日本に目を向けています。ぜひ、日本の皆さんにも、政治レベル、ビジネスレベル、また、草の根レベルで、オーストラリアのことをそう感じていただければと願っています。

作野:両国のビジョンを先に見据え、ミラーさんが貢献できることは何だとお考えですか。

ミラー:私は、先ほど述べたようなアイデアを実現に向けて推し進めていきたいと考えていますが、それにはさまざまな方法があります。私は豪日交流基金の理事長として、独立した立場から日豪両国の政府に働き掛けることができます。日本に行けば、政治家やビジネス・パーソン、昔からの友人らに会ってさまざまな話をすることができます。自分が言いたいことを言える立場になったことで、以前とは違った方法でのアプローチが可能だと考えています。今後は政府の見解ではなく、自分の見解を述べられますし、公私共に「BIRYOKUNAGARA」前向きな姿勢に影響を与えられればと願っています。そして、これはとても重要なことですが、これらの活動が次の世代につながり、若い人たちが声を上げるようになることを期待したいです。10年前に私が大使として日本に行った時、おそらくスタッフは皆「この人は日本のことをよく知っている専門家だ。私には彼以上に何か貢献できることがあるだろうか」と自分の存在意義について考えたはずです。ですから、たとえそれまで東京に赴任したことがなかった若いスタッフには「自分には何か大きな貢献ができる」ということを理解してもらうことがとても重要でした。彼らの視点は新鮮です、私とは異なる視点を持っています。

作野:まさにおっしゃる通りですね。最後に、本記事を読まれている、読者に向けて、ミラーさんからのアドバイスを頂戴できませんでしょうか。

ミラー:もし語学習得に躊躇されている方がいるのであれば、語学をしっかり勉強することは強くお勧めしたいです。外国語を覚えることはその国のカルチャーや考え方を知ることですが、外国語を話せない人にこの点を伝えるのはとても難しいことですからぜひ学んで欲しいと思います。翻訳ソフトでコミュニケーションを行うことはできるかもしれませんが、根本的な本質の理解にはつながりませんし、問題を解決はしないでしょう。そして、私ができる最大のアドバイスは、恐れずに挑戦を受け入れる気持ちを持って欲しいということです。海外を行き来し、それぞれの国の違いや変化を受け入れることは大変なチャレンジだと思います。しかし、ネガティブなことやリスクを考えるのではなく、そこから生まれるチャンスに思いを走らせ、受け入れることこそ重要です。「DOUSHITE DEKINAINO」ではなく、何ができるかを考えるべきです。繰り返しになりますが、重要なのは共通点に目を向け、その結果として何がもたらされるのかを考えること、そして注意深く話を聞き、実際に協力し合うことです。自分の置かれている環境を理解し、固定観念にとらわれないようにして欲しいと思います。

作野:すばらしいアドバイス、ありがとうございました。

(10月27日、日豪プレス・オフィスで)

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