メルボルンはかつて世界一の金持ち都市となり「マーベラス・メルボルン」と呼ばれた栄華の時代があった。メルボルンを首都としたオーストラリア連邦政府ができる1901年までの50年間、メルボルンっ子はいかにして驚異のメルボルンを作り上げていったのか――。
第44回 スプリング通り
メルボルン・シティの東の丘、イースタン・ヒルにあるのがスプリング通りである。中央部には、メルボルンの象徴的な建物であるビクトリア州議会議事堂(アカデミック・クラシカル様式)が立つ。1901年に英国植民地から独立して、オーストラリア連邦が成立した際に、メルボルンは連邦最初の首都となった。27年に首都がキャンベラに移るまでは国会議事堂であり、第1回の豪州連邦議会が開かれた由緒ある場所である。
シティ東南角に建つのは、メルボルンの歴史を語る旧財務省ビル(建築1862年、政府建築局JJクラーク設計、ルネッサンス・リバイバル様式)である。後背地にはビクトリア州政府の建物が並び、役所地区の玄関口となる。ゴールド・ラッシュで産出された金塊を地下金庫に貯蔵するために建築され、植民地政府の総督や首相、財務官、監督官などの高官事務所としても使用された。1899年2月に連邦国家首相による会合が開催され、植民地議事堂を豪州連邦議事堂として使用することが決まった。
州議事堂の前にある豪壮な建物は、ホテル・ウィンザーである。著名建築家チャールズ・ウェブがルネッサンス・リバイバル様式で設計し、19世紀末期に建設された。グランド・コーヒー・パレス(Grand Coffee Palace)と呼ばれ、酒類の販売や提供がないため、メルボルンの禁酒運動の中心地となった。オーナーのムンローは1866年にビクトリア植民地首相となった。連邦成立時には、政治家の住居や事務所となり、宴席も数多く開かれ、政治の裏舞台となった。
東側のアルカストン・ハウス(1930年建築、AKヘンダーソン設計、ルネッサンス・リバイバル様式、強化コンクリートの)は、都心部に位置する地上7階、地下1階建ての最初の高層アパートである。各フロアのバルコニーはフランス式、強化コンクリートを使用し、窓には鋼鉄製のフレームと騒音防止用二重ガラスが使われ、最新技術とデザインが採用されている。第1次大戦後の欧米ではアパートでの生活が流行したが、豪州にも流行が到達した実例である。豪州トップの政財界、法律家、医者などの居宅や事務所が置かれ、プロフェッショナルな雰囲気に合わせて、素朴なデザインが採用されている。
通りの西側には、華麗なプリンセス劇場がある。ゴシック様式を得意とする天才建築家ウィリアム・ピットによる華麗な設計と豪華な内装で、格式が高い劇場である。1888年オペラ・ファウストが上演されたが、名優フェデリッチが悪魔メフィストフェレスを演じたが、演技中に心臓発作を起こして亡くなってしまった。プリンセス劇場と旧財務省ビルは、幽霊ツアーの定番となっている。
スプリング通りには、カフェ・ヨーロピアンなどの名喫茶店も多く、歴史をじっくり楽しめる場所である。
文・写真=イタさん(板屋雅博)
日豪プレスのジャーナリスト、フォトグラファー、駐日代表
東京の神田神保町で叶屋不動産(Web: kano-ya.biz)を経営