メルボルンはかつて世界一の金持ち都市となり「マーベラス・メルボルン」と呼ばれた栄華の時代があった。メルボルンを首都としたオーストラリア連邦政府ができる1901年までの50年間、メルボルンっ子はいかにして驚異のメルボルンを作り上げていったのか――。
第45回 シー・バス 海水浴の時代
1850年代、メルボルンでは海水浴の流行が始まった。ブームが始まる以前の54年に地元のケニー船長が、セントキルダ海岸に座礁していたナンシーという移民船を購入して、女性用の海水浴船として利用を始めた。ケニー船長は積極的な広告を展開したため、セントキルダ海岸に多くの行楽客が集まった。
欧米の海水浴の風習は、英国に始まる。1700年代中頃、海水浴が健康に良いとロンドンの医者が発表し、市民に評判になり、英国イングランドの南海岸地帯にあるブライトンがビーチ・リゾートとして脚光を浴びた。現在でも英国最大のビーチ・リゾートとして有名で、ヨーロッパ大陸などからの観光客も数多く訪れる。
英国の動静に敏感なメルボルンでもすぐに流行して、手軽な海水浴場としてセントキルダ海岸、ブライトン海岸が人気の場所になった。当時は、電気も自動車も列車もない時代であり、富裕層は自家用の馬車でビーチに通った。現在、メルボルンの主要道路であるセントキルダ通りは、海岸へ向かう馬車用の道路として整備された。
しかし、家族連れを中心として多くの観光客が訪れたが、1つ大きな問題があった。当時は、男女が一緒に海水浴を楽しむ風習は、英国や豪州でもなかった。鉄道の開設と共に多くの労働者階級もまた海水浴に訪れたが、労働者階級の男性は、水着を付けずに泳ぐ者もいた。そのため中産階級以上の家族が泳ぐためには、労働者階級とは違う施設が必要とされた。それがシー・バス(Sea Baths)であった。
セントキルダ・シー・バスは、1858年にセントキルダ海岸の海水中に建築された100メートル四方のプールである。男性と女性の使用時間帯を分けることにより、公衆の視線を避けて専用プールとして女性も海水浴を楽しめた。57年にメルボルン中央駅フリンダース駅~セントキルダ鉄道線が開通し、61年にセントキルダとブライトンを結ぶ鉄道が敷設された。80年代からセントキルダからブライトンにかけては多くのシー・バスが建設され、ミドル・ブライトン・シー・バスは、81年に建設された。シー・バスは、入場料が必要なため、労働者階級は必然的に分離され、シー・バスでも、やはり男女は別の時間帯にのみ水泳を許された。
現在、シー・バスが昔のままの姿で残っているのは、ミドル・ブライトン・シー・バスのただ1つである。セントキルダ・シー・バスは、海を囲った本来のシー・バスとしての機能は失ったが、海水を引き込んでプールとして使用されている。1970年代には、オーストラリアも近代化され海水浴も男女一緒に泳ぐようになり、シー・バスの本来の意味が無くなってしまった。会員数も激減し、他のシー・バス同様にミドル・ブライトン・シー・バスも廃止が決まったが、多くの水泳愛好家や、市民の反対運動により現在も存続している。
文・写真=イタさん(板屋雅博)
日豪プレスのジャーナリスト、フォトグラファー、駐日代表
東京の神田神保町で叶屋不動産(Web: kano-ya.biz)を経営