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【新連載】最先端ビジネス対談/次世代のリーダーを目指せ 田代有三×作野善教

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 日系のクロス・カルチャー・マーケティング会社doq®の創業者として数々のビジネス・シーンで活躍し、このたび日豪プレスのチェア・パーソンに就任した作野善教が、コミュニティーのキー・パーソンとビジネスの観点から対談を行う新企画。当地で日本人の価値を高めると共にコミュニティーの発展を担う次世代のビジネス・パーソンに向けた内容を毎月お届けしていく。記念すべき第1回には元サッカー日本代表・田代有三さんにご登場をお願いした。
(監修:馬場一哉、撮影:伊地知直緒人)

PROFILE

たしろゆうぞう

たしろゆうぞう
2005年に鹿島アントラーズに入団、07~09年、Jリーグ3連覇に主力として貢献。08年には日本代表にも選出された。ヴィッセル神戸、セレッソ大阪などを経てJリーグ通算249試合出場65得点の成績を残した後、17年にオーストラリアのウーロンゴン・ウルブスへ移籍し18年に引退 。永住権獲得後、20年2月、シドニーでサッカースクール「MATE FC」を立ち上げた。

PROFILE

さくのよしのり

さくのよしのり
doq®創業者・グループ・マネージング・ディレクター。2009年にオーストラリアと日本をマーケティングとイノベーションで つなぐというビジョンの元 、doq®を創業 。JAPANブランドの海外進出におけるマーケティング戦略策定から実施管理までを担う。14年にはマーケティング・エキスパートとしてTEDxTitechに登壇。20年9月より日豪プレス・チェアパーソンに就任。

──サッカー日本代表など輝かしい経歴を経て、現在セカンドキャリアの舞台にオーストラリアを選ばれている田代さんですが、海外でのキャリア・チェンジを目指したきっかけは何だったのでしょう。

田代Jリーガーとして30歳を目前に迎えた時に、このまま引退したら、他の多くの選手と同じだなと思ってアメリカでのプレーを目指したのが最初の転機です。アメリカではメジャー・リーグ・サッカー(MLS)が盛り上がっていて、有名選手も多く、更にレベルもJリーグと同等。スポーツ・マネジメントが盛んな国なので、それらを肌で感じたいなと思いました。そして、MLSでサッカーをしていた小林大悟選手(元東京ヴェルディ、清水エフパルス他、現在バーミンガム・レギオンFC)を通じて30代前半にチャレンジをしました。

作野それが初めての海外生活ですか。

田代そうです。ちょうど3人目の子どもが産まれたタイミングで、契約も保証されていない状態だったので、海外生活と呼べるレベルではありませんでしたが。

作野当然ですけど、飛行機に乗って現地に飛びますよね。その時の心境って覚えてます?

田代もちろん覚えています。機内でひたすら英文法の本を片手に英語の勉強をしていました。ただ、それ以外のことは全く覚えてないんです。家族のことも頭をよぎるし、英語の本を開いてはいても、全く頭に入ってこない状況でしたね。

作野チャレンジの時って、移動中の心境も従来とは全く異なりますよね。

田代全然違いますね。通常だったら経由地のハワイやアリゾナでお酒でも一杯飲むところなんですがそれもしませんでした。

作野一時的に子育てから解放され、機内で足を上げて映画を見ることができたにも関わらず、それをせず頭に入ってこない英語の本を読んでたと。

田代勉強してるふりですね(笑)

作野アメリカで絶対に成功しなければならないというプレッシャーがあったのでしょうか。

田代家族のこともありますし、引退という言葉もよぎりましたし、それなりの覚悟を持って挑みました。行けば成功できるという自負はあったのですが到着から4~5日、全く寝られない日々が続きました。知り合いに睡眠薬を処方してもらって3時間だけ寝られたのですが起きた時に汗だくだったことを覚えています。

作野朝起きたら体がおかしいことになっていたと。

田代日本代表のキャンプに初めて参加した時も緊張しなかったのでメンタルは強い方だと思い込んでいました。ですが、自分は思っているほどメンタルが強くないのでは、と初めてその時思いました。

作野人生の転機だし、もう後がない。人生の中でも勝負の時だと思うんで、当然のことだと思うんですよ。僕は、11年10カ月前にアメリカからオーストラリアに来たんですが、飛行機の中でのこと、よく覚えてるんです。

田代やっぱり覚えてるんですね。

作野ニューヨークから飛行機に乗ってシンガポール経由でシドニーに来たんですが、飛行機に乗ったときにもう後がないなと……。アメリカでの仕事も辞めた、職もない、友達もシドニーにはいない。その時の飛行機の中での心境はよく覚えています。ご飯も食べましたし、映画も観たのですが何も手に付かない。この国で今後自分はどうなるんだろうと。人生には勝負の瞬間というのがあって、そういう時に眠れないほどのプレッシャーを感じるのは当然のことだと僕は思いますね。

サッカーのカテゴリーで豪州初のタレント・ビザを取得

──アメリカでのチャレンジ後、Jリーグのセレッソ大阪で2年間プレーした後、来豪されています。

田代アメリカではなかなか思い通りにことが進まず、日本に戻りプレーをしている時に、ウーロンゴン(シドニーから1時間ほど南下した郊外のエリア)のチームに声を掛けて頂きました。アジア・チャンピオンズリーグでオーストラリアには2回来たことがあり、良い国だなと思っていました。英語圏の国への興味は依然としてあり、気に入っていた国ということもあって、来豪を決めたというのが経緯です。家族全員で行くことを決めていたので、家財道具も全部引き払ってこちらに来ました。

作野留学、駐在、起業など、海外での挑戦に求めるものは人それぞれだと思いますが、田代選手にとって、オーストラリアでの挑戦はどういう意味合いを持っていましたか。

田代体が動くうちに自分がやりたいサッカーで上を目指したいという気持ちでした。ヨーロッパに行ったり、日本代表を目指したりといった方向性ではなく、新たな環境で自分のサッカーのレベルを維持しながら、セカンド・キャリアにつなげたいと考えていました。

作野セカンド・キャリアを見越しての海外でのチャレンジ、そのオポチュニティーを最も得られる場所としてオーストラリアを選ばれたわけですね。

田代英語の勉強もウーロンゴン大学でさせて頂ける、永住権のチャンスもある。そういった縁からオーストラリアであればチャレンジできると感じました。

作野田代さんは、オーストラリアで初めてサッカーのカテゴリーでのタレント・ビザ枠で永住権を取られたと伺っています。今後、オーストラリアでこの分野で永住権を申請る際には、田代さんが基準となるそうです。それってすごいことですよね。

年齢関係なくチャレンジが可能な社会

──オーストラリアでは良いスタートを切れましたが、アメリカにもう一度チャレンジしたいという気持ちはありますか?

田代いろいろ悔しいこともありましたが、今は全くないです。子どもにとっての環境などを考えると、オーストラリアは僕にとって、とても良い国だと思っています。

作野僕は留学生としてアメリカで一度チャレンジし、その後サラリーマンとしてもチャレンジをした。でもまだ起業家としてはチャレンジをしていない。そういう意味ではまだアメリカへのチャレンジ精神が残っているんですよね。

田代作野さんがアメリカに最初に行かれた理由は何なのでしょう。

作野最初は旅行で行って、その後学生時代に語学留学をし、日本の大学を卒業した後にアメリカの広告代理店の東京オフィスに就職。5年間東京で働いた後、シカゴに転勤になったというのが経緯です。

田代狙っていたんですか?

作野留学後、アメリカでいつか勝負したいなと思っていました。そこでアメリカ系の会社に入って、アメリカ人のボスの下で働き、東京でアメリカの仕事の仕方を覚えた後、勝負しに行ったという感じです。会社の中でも常に競争が行われ、同僚同士も競い合っている。若い頃にそういった刺激のあるところで働けたのは、今の財産かなと思っています。オーストラリアに来たのは、パース出身の妻と出会ったことがきっかけでしたが、起業家として考えるとアメリカという市場はやはりダイナミックで魅力的です。住むことは考えてないですけど、何らかの形でもう一度挑戦したいという気持ちは胸の中には秘めてます。

田代アメリカからオーストラリアには当時の仕事を辞められて来られたわけですよね。なぜその決断をしたのですか?

作野妻がアメリカの大学院を出て、現地の会社に就職したんですが、その会社内でシドニーのポジションが空いたんです。ハードルは高かったのですが彼女はそれに合格し、シドニー行きのチケットを手にしたわけです。当時、僕はアメリカでちょうど丸3年働き、次の赴任先としてドイツ、あるいはロシアが挙がっていました。ドイツ、ロシア、オーストラリアという3つのチョイスが当時あったんです。ただ、思い返すと僕のシカゴ行きの時に妻は仕事を辞めて一緒に来てくれましたし、今度は僕がリスクを取って仕事を辞めてオーストラリアに行くことを選んだという感じですね。

田代いや、すごいですね。

作野それがちょうど31歳の時です。オーストラリアは温暖気候で天候が良く英語圏、移民国家ということもあって、ネガティブなチョイスだとは思わなかったです。実際、住んでみて日本人の方と話をするたびに思うのが、皆さん何かしら大きな意思決定をされて、飛び立って来ているなということです。それぞれバックグラウンドも違い、理由も違う。でも、どこかで一度大きなジャンプをしたくて、チャレンジをしに来ている。ワーキング・ホリデーでも、シェフでも、スポーツ選手でも、あるいは経営者でも、この国にはそれを受け入れてくれる土台、土壌があって、新しいものへのチャレンジを後押ししてくれます。

田代社会全体がそういう体制になっているのでしょうね。何歳になっても何にでもチャレンジできる環境があって、日本のように「あの人、仕事辞めて何するの?」というような目で見られることがない。チャレンジに対して「頑張れ」という姿勢が基本的にありますよね。

作野ごく自然にありますよね。オーストラリアの大学、大学院だと40~50代の学生も結構いるんです。ある程度人生の駒を進めた上で、何かしらチェンジをしたい人が改めて勉強をして新しいチャレンジをするわけです。日本も最近はそうなっているのかもしれないですが、やはりキャンパスに50代の人がいたら、先生と思われてしまうかもしれないですね。

田代オーストラリアのチームに合流した当時、たしか34歳だったと思うんですが、プレー中、得点すると18歳の若造に、「いいぞー」って頭ぽーんってたたかれたりしてました(笑)

作野それはやっぱり日本のサッカー界ではあり得ないですか?

田代ないです。そういった年齢差が関係ない関係性も魅力だと思います。

お手本となる人からノウハウを学ぶ技術

──スポーツ選手にとってセカンド・キャリアは大きな課題だと思います。現在、シドニーを拠点に活動される中、どのようなことを感じておられますか?

田代サッカー・プレイヤーとして活動する中、違う道を選びたいと思い、オーストラリアに来たわけですが、まずは自分が何が好きかを知らなければならないと思い知らされました。サッカー以外に何に興味あるかを考えるところから考え始め、多くの人々と話すうちに興味の対象が広がりました。

それらを何かしらの形で自分のビジネスにできたら楽しいなと。ただ、まず、自分が持っている武器を考えた時にやはりサッカーの技術を伝えることはマストだと思ったので、その活動を通して今後はコミュニティを広げていければと思っています。

──オーストラリアと日本、代表レベルでは近いレベルにありますが、草の根での違いは感じていますか?

田代日本人の場合、子どもの頃からステップやボールを扱う技術がすごく高いんです。小さい時からベーシックなステップ系のトレーニングもしっかりやっているんです。僕がこちらに移籍してきた時に感じたのは、大人も含めてステップが悪いということでした。

作野それはプロも含めて?

田代はい、プロでも。バックステップや足を入れ替える動作など、小さい技術がすごいおろそかにされているなと感じました。それを、小さい時から指導する必要があると僕は思いました。僕自身、プロのレベルで技術を見てきたので、そこに到達するためには、現状のトレーニング環境はダメだと感じ、リズム感やステップ、空間認知能力などを鍛えることを目指してサッカー教室を開きました。サッカーへの恩返しと言うと、ちょっとおこがましいですが、今僕にできることはそれです。僕が感じてきたことを子どもたちに伝えて、彼らが大きくなった時に「ステップいいね。さすが!」と評価してもらえるとうれしいなと思います。

作野スポーツでは、技術面とメンタル面が大きな柱だと思いますが、メンタル面においてはどんなところを子どもたちに教えてこられてます?

田代基本的なことなんですけど、日本式スタイルを取っているので、まずはきちんと目を見てあいさつをする、悪い言葉を言ったらサッカーができなくなるよ、といったことを伝えています。ポジティブな言葉がサッカー場でたくさん出てくることを目指しています。そういう意味ではサッカーだけではなく、教育に近い側面もあると思います。正しい規律への意識など、そういった面を運営しているMate FCでは心掛けるようにしています。

作野Mate FCでは、サッカーという共通項で田代さんご自身がトップレベルの経験を伝えていくわけですが、今後それ以外のセカンドキャリアに挑む時は、どういう心境でどういうアプローチでやられていくことになるとお考えですか?

田代僕の今までのサッカーの経験をうまく置き換えてやっていきたいなと思っています。僕がサッカーがうまくなった時ってどういう環境だったかを考えた時に、やはりうまい人が常に周りにいました。鹿島アントラーズに入った時には、代表で活躍した小笠原満男さんと毎日基礎練習をやっていました。上手い選手と一緒にいるとこちらもミスをできないですし、プレッシャーを受けます。しかし、それを毎日続けるうち徐々に慣れてくるんです。そして自分も気付かぬうちに上手くなっていくという、そういう状況にいました。今、いろいろな人に会うことを主軸に置いているのは良いものを吸収したいという思いからです。その意味では、ビジネスで活躍されてる作野さんからも盗めるものがあるという思いでいます。

作野僕はともかく、昔の日本の職人さんはそういうことをやられてきました。良いアプローチですよね。学費もかからないし(笑)

田代だから僕、ウェブでよく調べるんです。この人の近くにいた方がいいなっていう人を。

作野僕は田代さんからサッカーのテクニックを教わりたいな。

田代僕で良ければ。盗んできたものしかないですけど(笑)

オーストラリアの市場、ビジネスの捉え方

──作野さんは起業家としてアメリカにも進出したいとおっしゃっていますが、ビジネスの場としてオーストラリアという市場をどのように捉えておられますか?

作野地球が凝縮されたような市場だと捉えています。オーストラリアの社会はマルチカルチャーで、ひと言で言うと世界の縮図なんですよね。シドニーの町は私も含めて約40%の人がオーストラリア国外で生まれた人で構成されています。それってすごいことだと思いません?

田代すごいことですよね。

作野移民が40%以上という町は、世界でもサンフランシスコとバンクーバーとシドニーだけなんです。シドニーはそれぐらいインターナショナルな都市なんです。ビジネスをやっていて僕はそこが一番面白いと思っています。

田代なるほど。

作野私自身は、ビジネスにおいてテスト・マーケティングの地と認識し、ラーニング、トライアル、失敗を糧に、よりコストや投資が必要なアメリカ、ヨーロッパの地に企業が進出する手伝いなどをしています。実際、アメリカの企業はオーストラリアの市場をそのように捉えて使っています。マック・カフェもこの市場で生まれました。日本でも渋谷を始めいろいろなところで見掛けますが、オーストラリアが最初なんですよ。オーストラリアでテストされ、実装されて世界に出たんです。テスラのパワー・ウォールというバッテリーもオーストラリアでテストされた後、欧米に出ています。シティ・バンクのモバイル・アプリもそうです。そういう意味でオーストラリアはテスト市場として最適なんです。これが私のオーストラリアの市場の捉え方です。

──オーストラリアとひとくくりにしていますが、一方で都市による違いもまたありますよね?

作野はい。ビジネスにおける各州の違いというのも顕著で、そこがオーストラリアのもう1つのおもしろい点です。シドニー、メルボルン、ブリスベン、パース、アデレード。これが100万人以上の人口がいるオーストラリアの五大都市なんですよね。オーストラリアでビジネスを展開していくには、これらの都市での展開が目標になります。田代さんがこれから取り組まれるビジネス、サッカー・スクールはもちろん、それ以外のビジネスを考えた時に、この市場にはどのようなオポチュニティがありそうですか。

田代オーストラリアには、日本よりも環境問題などに対して興味ある人が多いと感じています。それこそ、サステナブル、オーガニックなどをキーワードにナチュラルなものを選ぶという習慣は日本よりはるかに進んでいます。飲食店でもグルテン・フリー、ヴィーガンなど、いろいろ選べますよね。日本でもいずれこうした感覚が当たり前になるとは思いますが、そのためにも、僕が良いと思うオーストラリアのものと日本をつなげるようなことができたら、やりがいがあると思います。

作野すごく良い着眼点だと思います。日本にオーストラリアのものを持って行くことを考えた時に何を持っていくかということを考えると、やはり日本にないもの。あるいは、日本に比べて優位なものを持っていくべきだと思うんですよね。それはひと言で言うと、ライフ・スタイルだと思うんですよ。

田代そのひと言に集約されますね。

作野オーストラリアに来た日本人の多くは、この地のライフ・スタイルをすばらしいと思うはずです。つまり、この点においてはオーストラリアの方が優位なんです。そのライフ・スタイルを日本に提供することがビジネス・ソリューションになると思います。

田代まさにそう思います。

作野日本も今変わろうとしてるじゃないですか。働き方改革だとか、自然志向だとか。そんな中、既にイソップなどライフスタイル・ブランドとしての日本での成功例も出てきていますよね。

田代自然もあって都会もあって、パブでは昼から飲んでいる人もいます。このような環境、なかなかないですよね。好きな時間を好きなように過ごしてそれでもしっかり成り立っているというのはすごいと思います。

作野はい。課題はサービスにせよ、プロダクトにせよ、オーストラリアのストーリーを日本の人にどうやって伝えていくかだと思うんです。

海外市場における日本人の強み

──オーストラリアの良さを日本に届けるという観点と逆になりますが、海外に住んでいる日本人の強みというのはどのようにお考えですか?

作野ビジネスの観点から言えば、どの国の人よりも日本人は信頼度合いが非常に高いということが言えます。契約社会のオーストラリアでは、書面に署名をしてもらうまで何が起こるか分からないというのが一般的ですが、日本人はそれがたとえ口約束でも責任感が強いので信頼が置けます。その安心感が日本人の強みなのかなと思います。

田代スポーツの観点でも同感です。日本人は仕事を真面目にしっかりやりますしルールを守る。サッカーでも、チーム力がすごい高い。ラインを合わせたり、守備への切り替えなどチームとしての動きが早い。言われたことをきっちり守る。僕もサッカー・スクールでは日本人らしさを持つという意味で規律をしっかり教えています。ただ、言われたこと以外できない人もいますのでその点は気をつけないといけないですが。

作野弱みにもなり得ますよね。

──オーストラリアにおいて日本人はマイノリティーですが、私たち日本人の価値をより高め、存在感を出していくためにはどのようなことをしていけば良いとお考えですか?

作野コミュニティーの透明性を、他のエスニック・グループの観点から作るべきだと思っています。僕がローカルの友達からよく聞かれるのが「日本人てシドニーにいるの?」という質問。つまり、日本人のコミュニティーがローカルにしっかり根付いていないわけです。ただ、一部それができている分野はよくワークしていると思います。例えば教育分野がそれに当たります。オーストラリアは日本語語学習の就学者数が非常に多く、教育分野における日本人コミュニティーは透明性があって、しっかりと現地とのつながりを作れていると思います。それと同様のレベルで他分野でも現地とつながると、日本人コミュニティーはより栄えると思います。料理の分野でもスポーツの分野でもビジネスの分野でも強いつながりができると日本人コミュニティーにいることを誇りに思えるようになりますし、現地の人とのコミュニケーションももっと楽しくなると思います。

田代当たり前のことを当たり前にやるだけでも、他の国の人には負けないポテンシャルを日本人は持っていると思うのでまずは目の前のことをきちんとやることだと思います。そこから先はまた考えればいい。僕はこちらのリーグでも日本人らしさを意識していたため、日本好きな人から日本語で話し掛けられることなどもよくありました。オーストラリア色に染まりきるのではなく、日本人らしいきっちりとした仕事をすれば、自然と差が付くのではないでしょうか。その積み重ねによって日本人としての信頼を得られると思います。

作野当たり前のことをきちんとやる、それができない人も多いですよね。日本人でも最近減ってきている気がしますが、海外にいるとそれを顕著に感じます。

COVID禍、声を掛け合うことの大切さ

──海外にいるからこそ、自分たち1人ひとりが日本の代表という意識が必要なのだと今回の対談を通して感じました。最後になりますが読者の方にメッセージをお願いします。

田代僕は人とのつながりを大事にしたいと思っているので、これまで以上にいろいろな方にお会いしていきたいです。町中で見掛けたらぜひ声を掛けて頂けるとうれしいです。

作野田代さんのような著名人に気楽に声を掛けてくださいと言われたらうれしいですね。見掛けても声を掛けて良いのだろうかと構えちゃう人もいると思うので。

田代どんどん声を掛けてください!

作野今年はCOVID 19の影響で、いろいろな形でダメージを受けられた方が多いと思います。最近会っていない人、ちょっとしんどい思いをしている可能性がある人に、電話を掛けたりなど、ちょっとした声掛けを怠らないことで、皆が一体となって苦難を乗り越えられるのではないかと思います。声を掛けるというのは会話の始まり。掛けないことには何も始まらないので、今はまず知り合いに声を掛けるというのが大事な時なのではないかなと思っています。

──本日は貴重なお話をありがとうございました。

(9月10日、日豪プレスオフィスで)

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