メルボルンはかつて世界一の金持ち都市となり「マーベラス・メルボルン」と呼ばれた栄華の時代があった。メルボルンを首都としたオーストラリア連邦政府ができる1901年までの50年間、メルボルンっ子はいかにして驚異のメルボルンを作り上げていったのか――。
第46回 コバーグ刑務所
1850年代、ロンドンに次ぐ大英帝国第二の都市となったメルボルンだが、人口の大半はゴールド・ラッシュで急増した鉱山夫などの男性移民であり、犯罪者もまた激増したため、39年設立のメルボルン監獄では対応しきれなくなった。
そのため、ビクトリア植民地政府は市内から9kmほど離れたコバークに、1km四方の巨大なペントリッジ刑務所を建設した。英国ペントンヴィル刑務所をモデルとして、近代的な囚人刑務所管理システムを持ち、51年に最初の囚人が収容された。段階的に施設が追加建設され、首都圏最大の拘留施設、収容刑務所となった。
コバーグ刑務所には3つのパノプティコン(Panopticon)全展望監視収容所が設置された。中央部に監視センターを設置し、受刑者の部屋を扇状に展開するデザインで、フィンガーと呼ばれる囚人収容棟を少人数で監視する近代的なシステムである。刑務所施設は、植民地政府の政策に沿って徐々に拡張された。70年のロイヤル・コミッション(王立委員会)により、囚人への強化労働プログラムがコバーグ刑務所に導入され、刑務労働作業所が建設された。
刑務所は囚人の罪状ごとにA棟から10段階が振り分けられ、Aから進むごとに重い犯罪者が収容された。木材貯蔵ヤード、木材加工工作所、大工作業所、金属加工ワーク・ショップが、79年に紳士服テーラー、革靴ワーク・ショップが作られ、労働用屋外ヤードが最厳格警備地区に設置された。
専用施設として新しい女性刑務所が設置されたが、フェアリー女性刑務所がヤラベンドに56年に建設されて、女性囚人はコバーグから移転された。少年少女の矯正施設としても使用し、F区画がジカ少年院として、またD区画にプロテスタント少女院が専用施設として新設された。最重犯罪者用区画は、ビクトリアの最重罪で長期刑の受刑者を収容するものでジカジカ特別警備施設と呼ばれ、セキュリティの固さより「刑務所の中の刑務所、スーパー・マックス」と呼ばれたが、83年に4人の囚人が脱獄した。
伝説のブッシュ・レンジャー、ネッド・ケリーは、メルボルン監獄で絞首刑に処せられた後、1929年にコバーグ刑務所に移動して埋設されている。豪州で最後に処刑されたロナルド・リャンは、67年にD区画で絞首刑に処されて、壁隣接地に埋葬されている。VIC州で75年に死刑が廃止されるまでに、コバーグ刑務所では10名の囚人が絞首刑となった。