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日本食の普及を目指して─「東京マート」「フジマート」創業者、 舟山精二郎氏

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日系のクロス・カルチャー・マーケティング会社doq®の創業者として数々のビジネス・シーンで活躍、現在は日豪プレスのチェア・パーソンも務める作野善教が、コミュニティのキー・パーソンとビジネスをテーマに対談を行う本企画。第2回となる今回は、オーストラリア各都市で日本人にとって欠かせない日本食材を中心に扱うスーパー「東京マート」「フジマート」の創業者、舟山精二郎氏にお話を伺った。
(監修:馬場一哉、撮影:伊地知直緒人)

PROFILE

舟山精二郎 (ふなやませいじろう)
1976年にシドニーで日本食品小売店「東京マート」を創業。その後、全豪で日本食品の輸入・卸売・小売を手掛け、日本食の普及に貢献。2011、13年、豪州社会に貢献した移民 経営者の功績を讃える「エスニック・ビジネスアワード」に入賞。17年には日本政府から「日本食海外普及功労者」として表彰された。現在も会長として現場に顔を出している。

PROFILE

作野善教 (さくのよしのり)
doq®創業者・グループ・マネージング・ディレクター。数々の日系ブランドのマーケティングを手掛け、ビジネスを成長させてきた。2016年より3年連続NSW州エキスポート・アワード・ファイナリスト、19年シドニー・デザイン・アワード・シルバー賞、Mumbrellaトラベル・マーケティング・アワード・ファイナリスト、移民創業者を称える「エスニック・ビジネスアワード」入賞。

──オーストラリア社会に貢献した移民の経営する企業に与えられる「エスニック・ビジネス・アウォード」。そのファイナリストに残った日本人は、過去に舟山さん(2013年)と作野さん(19年)のお2人のみということで今回、貴重なお話を伺えるのではと考えこの場を設けさせていただきました。

作野:本日は先輩創業者からいろいろとお話をお聞かせ頂ければと思います。

舟山:わざわざお越しいただきありがとうございます。まず、私が来豪した時の話から始めましょう。私は元々商社の駐在員として1961年にシドニーに来ました。ちなみに当時はまだプロペラ機でした。

作野:どちら経路だったのですか?

舟山:羽田から香港に向かい、その後、マニラ、ダーウィンを経てシドニーに入りました。

作野:すごいですね。

舟山:1番時間が掛かったのがダーウィンからシドニーでした。ダーウィンを朝に出て、シドニーに着いたのが夕方。掘っ立て小屋みたいな飛行場で『ひどいところだな、シドニー』と思ったのを覚えています。当時の私にとって、シドニーといえば白人ばかりというイメージでしたが、空港から外に出ても一向に会うことはなく、シティの中心地、ジョージ・ストリートに行っても見掛けるのはアボリジニーが多かったですね。

作野:海外に出られる時の心境、どういう気持ちで飛行機に乗られたのか覚えていらっしゃいますか。

舟山:兵隊として戦地に赴くのと同じですよ。

作野:生きて帰れるかも分からないというようなお気持ちですか。

舟山:そうですね。元々は3年という契約だったんです。当時、長男が日本で生まれていたのですが子どもを日本に置いて、羽田を発ちました。

作野:ご家族を置いて、兵隊のような気持ちでこちらに入国されたのですね。

舟山:3年なら良いと思って来ました。ですが、営業の成績が良かったせいか、3年経っても帰らせてもらえなかった。3年経ち、そろそろ帰る準備をしていたら、『舟山の得意先を全部回る』という理由で本社から社長が来たのです。そんな中、得意先から『舟山は置いていけ』という声が挙がりました。すると社長に『舟山君、あと3年いるか』と問われた。そこで『家族を呼んでも良ければ』と条件を付けたら許可が降りた。その4カ月後、家内が子どもを連れて来ました。その頃長男はもう4歳でしたよ。

作野:移住を決意されたご家族のご心境はどのようなものだったのでしょう。

舟山:転勤だから移住とまでは思っていなかったようです。その頃、日本人の多くはローズベイなど、イースタン・サバーブに住んでいました。

作野:それは、日本人社交クラブがあったなどの理由ですか。

舟山:いえ、当時はまだそのようなものはなかったので、エリザベス・ベイに我々が日本人クラブを作りました。その頃、日本人の数は約200人ほどでしたが、これからは駐在員も増えるだろうと考えたためです。その中には戦争花嫁もおりました。戦争花嫁、ご存知ですか。

作野:戦後、日本から引き上げるオーストラリア人と共に来豪された女性たちですよね。

舟山:はい。終戦後に連合軍が日本を占拠して統括しましたよね、その時オーストラリアの兵隊は広島に駐在しました。その兵隊たちと恋に落ち、彼らと共に移住してきた戦争花嫁の中には、今でも存命の方がいらっしゃいます。彼女らの中にはオーストラリアに来てみたら自分の旦那が実は百姓だったのでがっかりした、と言っている人もいました。もちろん冗談ですが(笑)。

日本人永住者第一号

作野:その当時は、今ほど人種の多様化もなかったと思いますが、差別のようなものもあったのでしょうか。

舟山:ひどかったですよ。こちらに来てまず1人で下宿したのですが、しばらくすると家から出ていけと言われました。仕方ないからまた他の土地に行くのですが、行く先々で『Are you Japanese?』と聞かれるんです。『Yes』と答えると、『私の息子は日本人に殺されたからダメ』と言われて断られてしまうのです。

作野:戦争で、ということですよね。

舟山:はい。考えた末に『No, Chinese』と答えるようにしました。そうでなければ下宿なんてとてもできなかった。

作野:生活の面でそのような不都合がおありだったのですね。ビジネスの面では何かそのようなことはありましたか。

舟山:ビジネス面では特に何もなかったです。私は紙パルプを扱っていたのですが、当時は紙がなかったので重宝されました。カレンダーの紙など、今でもコーテッド・ペーパーなんてほとんど日本のものですよ。

作野:オーストラリア人に必要なものを供給されていたので、普通に正面から取引できたというわけですね。

舟山:ええ。家族が来て滞在期間も延びたわけですが、その時期にオーストラリアの法律が変わって5年以上住んでいる人には永住権を申請する資格が与えられることになったんです。そして、知り合いのオーストラリア人に勧められて私も申請書をイミグレーションに提出しました。しかし、その後全く音沙汰がなく、半年くらい経ってからかな、そのオーストラリア人に『もう取ったか』と聞かれ、全然音沙汰がないことを言うと『直接イミグレーションに行け』って言われたんです。イミグレーションで『We don’t need you』って言われたらどうするんだと聞いたら『そんなことは絶対ない』というので思い切って行ってみました。そこで『This country needs me or not?』って聞いたら、その係官が 『This is the first visa for Japanese people』と言いながら永住権を与えてくれたんです。

作野:それはすごい。日本人初の永住者なのですね! その後はまだしばらく紙パルプの仕事を?

舟山:そうです。

作野:そんな中、どのようなきっかけでジュン・パシフィック社を立ち上げられたのですか。

舟山:当時、ニクソン・ショックというものがあって、それに伴い、私の会社も総合商社の兼松と合併になるなどいろいろと動きがありました。そんな中、当時の部長が紙パルプ部門から10人ほどのメンバーを引き抜いて新しい会社を立ち上げました。私もその会社に付いていったのですが、円安で紙が儲からなくなってしまい、帰国を命じられたのです。ただ、当時、僕は既に現地で家を建てており、更にこちらで産まれた娘が帰りたくないと言う。娘のためなら帰らない方がいいだろうということで勤めていた会社を辞めて、新たなビジネス・パートナーと共に紙を売り始めたのですが、かつての上司に『舟山、お前は俺のコンペティターになるのか』と言われ、メーカーに圧力を掛けられてしまったんです。それで、結局一文無しになってしまいました。

──オーストラリアに残る決断をされたものの、一文無しで先の見えない状況に置かれてしまった。それでもこちらに留まる決意をされた。

舟山:私の哲学というか、人生観として肝に銘じていたのは『1つの窓が閉じれば、必ず次の窓が開く』ということでした。だから次の窓が開くまで焦ってはいけないと思いました。家内が働きに出て、2~3年は家内に食わせてもらっていたので苦しかったですよ。クリスマスに娘が自転車を欲しがったのでなけなしのお金で自転車を買ってやったんですが、ひっくり帰って血だらけになってしまった。そこで近くの医者に連れて行くと歯が欠けていると。治療にいくら掛かるか聞くと300ドルと言われました。今の10万円くらいですね。当時、そんな大金はとても払えないので『大きくなったら金持ちになってダイアモンドの歯を入れてやるから』って娘に泣いて謝りました。本当に苦しかった。ただ、これは笑い話ですが、大きくなって娘が結婚した相手が歯医者で、その旦那がダイアモンドの歯を入れてくれました(笑)。

忘れられない50ドル

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作野:私も2009年にオーストラリアに移住して、それこそアパートの一室で今の会社を立ち上げましたが、最初の3年くらいは妻に食べさせてもらいました。働いても働いてもお金が出て行くだけ、加えて借金もできて辛かったです。その当時の奥様の気持ちとか、家で主婦をされている方の気持ちとかお分かりになりましたか。

舟山:若い人たちと我々の年代って未だに考え方が違うんですよね。我々は『男子厨房に入るべからず』などといった価値観の教育を受け、また同じ時代を生きた女房にもそういう考えがあります。だから私は台所に立ったことはありません。

作野:奥様が外でお仕事をされて、かつ家のお仕事もされたと。すごい奥様ですね。

舟山:そうです。でも当時はそれが普通でした。今の若い世代は旦那が料理したり、皿洗いしたりするようですね。

作野:そうですね。子どもの世話も、完全にフィフティー・フィフティーです。『あなたの子どもでしょ』って言われます。

舟山:今はそうでしょう。ただ当時の男は、子どものおしめを替えたりとか絶対しなかったです。そんなことしたらぶん殴られちゃう(笑)。

作野:では、ご自宅では何をされていたのですか。

舟山:何もしていないです。日本から送ってもらった本を読むくらいしかすることがなかったです。ただ、3年ほど経った頃、オーストラリアのゴルフ事情を調べたいということで、日本の新聞社が取材に来たんですよ。それで知り合いが僕が暇だということで案内役として紹介してくれたんです。そこでムーア・パークに連れて行って、ゴルフのスウィングの写真なんかを撮ったのですが、取材後、新聞記者が『ご苦労様でした』って僕に50ドルをくれたんです。3年間で初めてもらった50ドルですよ。涙が出ました。友達には泣いているのをごまかしましたが……。その50ドルは今でも持っています。どん底の時のことを忘れないためにね。

──そのような辛い期間を経て、いよいよ東京マートを創業された。

舟山:当時は、正月になると日本の家族などが醤油とか餅とかを送ってくれたんです。駐在員時代は、それらをみんなで持ち寄って支店長の家に集まって食べたりしていました。そういうことを思い出しながら、何か商売をと考えた時に食べ物以外ないのではないか……って考えるようになったんです。そこで日本に行ってサプライヤーを根気よく探して回ったら、2軒だけ反応が早いところがあった。そこでその2軒とお付き合いをはじめました。今、東京マートがあるノース・ブリッジのあのエリアは掘っ建て小屋が10軒くらいあるだけの土地でした。そのうちの1軒を借りて、商売を始めました。倉庫も何もなかったですが、裏に空き地があったのでそこに荷物を積みました。

作野:そこは住宅街で、その中にオフィスを設けたと。

舟山:そうです。当時はまだ道路も舗装されていませんでした。そんな中、現在もあるショッピング・センター建築の話が持ち上がりました。完成までに1年掛かると言われて立ち退かなければならなくなったのですが、その保証金として5万ドル頂いたんです。そして。その5万ドルでディー・ワイに倉庫を借り、自宅に近いフレンチズ・フォレストに出店しました。人気が出ましてね、それから1年経ってノースブリッジに戻る折には、日本人が誰も来なくなってしまうからとその土地のオーナーに引き止められました。

作野:当時、東京マートにお越しになられたお客様は日本人がメインでしたか?

舟山:そうですね。

作野:こちらにいた数百人の日本人の方々にとってライフ・ラインとなっていたのですね。

舟山:はい。ただ、最初は簡単ではなかったです。掘っ建て小屋で始めた当初は、1日の売り上げが20ドルという日もありました。そこでひねり出したアイデアがすき焼き肉を売ること。当時、坂本九さんの『上を向いて歩こう』が、Sukiyakiという英題で歌われて人気だったのですが、ではすき焼きってなんだろうとなると知らない人も多かった。それを東京マートで売り出したら人気に火がついたのです。それからパース、メルボルンなど、全豪展開を始めました。

作野:全豪展開となると、大きい国ならではチャレンジや課題が多いと思うのですが、例えば州ごとに法律が違うこと、1つ1つの都市がものすごく離れていることによるロジスティクスの違いもありますよね。

舟山:ええ。足りない部分は別のエリアで対応するなどしていますね。

作野:スタッフの方々もそれぞれの州で見つけられているのですか。

舟山:はい。例えばパースはチャイニーズのマーケットですから中国人がやっていますけど、みんなうまくやっていますよ。昔から『愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ』といいますが、その言葉の通りにさまざまなことを実践しています。

白豪主義からマルチカルチャーへ

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作野:オーストラリアは、かつて白豪主義政策を取っていましたが、一方で今はマルチカルチャーな国作りに力を入れています。私はマルチカルチャーになってからのオーストラリアしか知らず、良い面しか知らない。ものすごい偏見を持った1つの考え方から、180度この国は変われたことをいつも不思議に思うんです。そのあたり、ご意見ございますか。

舟山:御存知の通り、オーストラリアは元々イギリスで犯罪を犯した人々が流された土地です。その中で一緒に付いて来た監督者たちはメルボルンに滞在し、それ以外の人々は他の地域に流れました。メルボルンはそういう背景から上の立場という意識が強く、一方でシドニーは人口が多い。そういった背景でメルボルンとシドニーが対立していたことから、真ん中にキャンベラという首都が作られました。このような対立からも分かる通り、オーストラリア国民には当時、犯罪者という劣等感があって、それを払拭するために白豪主義が生まれたんだと僕は思うんです。

作野:シドニーに至っては現在40パーセント以上が国外で生まれ育った人で構成されていますが、国としてどうやって180度転換できたのでしょうか。

舟山:それはやはり貿易ですよ。兼松株式会社の前身、兼松商店の創業者である兼松房治郎という人が羊毛に目をつけたことから日本とオセアニアの1番最初の貿易が始まりました。彼はこれで大成功を収め、病院などに多くのドネーションを行い現在もKanematsuの名が冠されています。オーストラリア人の記憶にKanematsuの名は残っていると思います。その後、対日関係が非常に悪くなった理由は言わずもがな、太平洋戦争ですね。当時、米国のマッカーサーに勝てば戦争に勝てるという考えが日本にはあって、どんどん南下するマッカーサーを追ってダーウィンを空襲、その後、シドニー湾に入り、軍艦と勘違いし一般のフェリーを襲ったんです。当時を知っているオーストラリア人から話を聞くと、日本軍が上陸したという噂が流れ、多くの人がブルー・マウンテンへ逃げて行ったそうです。シドニー北郊のノースヘッドへと行ってみてください。今でも砲台の跡があります。あれは日本軍撃退用のものだったんです。アンザック・デーに中国人が日本人と間違われて殺されたという事件もあるなど、当時は根が深かったですよ。今でもアンザック・デーにはそれを思い出し、怖くなります。ただ、今は貿易関係もありますし、日本がなければやっていけないところもあるので変わりましたけどね。

作野:対日関係は徐々に良くなっていったのですね。

舟山:そうですね。やっぱり貿易が大事だということです。加えて日本人は真面目で奇麗好きだということで再評価もされました。何より日本人はよく働くでしょう。

作野:貿易で日本の物や文化がオーストラリアに入って来たのですね。それで白豪主義だったこの国もどんどんマルチカルチャーになっていったと。

舟山:地理的にいってもオーストラリアは東南アジアですから。

作野:そういった意味ではジュン・パシフィックさんのやられている役割っていうのはすごく大きいですよね。日本の文化と物資を全州に対してインポートし、それをローカルの方に提供されている。食文化の変化や需要の変化はこの数十年でどのように変わってきましたか。

舟山:最初、日本食は特殊なものと見られていました。ところが今はポピュラーになってきました。この国は移民の国ですから、ギリシャ人が入って来ればギリシャの食文化が入って来ますし、フランス人が来ればフランス料理が入ってきます。当然それらは認めなければならない一方で、この国は検疫が厳しい。私自身も2回手入れされた経験があります。1回目は海苔、海藻類。税関が10人くらい入って来て、何も持たずに外に出ろと指示され、その間に倉庫の中の海苔を全て持って行かれました。マルーブラに住んでいた人が、海藻が健康にいいという情報を得て、毎日ビーチで海草を採って食べていたところ、それで体を壊しその人が保健省に訴えたということがきっかけで海藻の検査が行われました。するとヒ素が出たということで全ての海藻類が没収されることになったのです。

──その後、裁判を起こされたと聞いています。今のすし文化が根付いた背景に舟山さんの奮闘があったわけですね。

舟山:海苔がないとすしが作れないじゃないですか。でもその当時は日本食は全く知られていませんでした。移民が入れば食文化も付いて来るのだから、そんなに検疫を厳しくするなということは、以来ずっと言い続けています。

作野:こちらの移民、エスニックの人たちには、チャイナ・タウンなどそれぞれ特定のエリアに集まって住む習性があります。その昔、ローズベイのあたりで200人くらいの日本人が集まっていたとお話がありましたが、現在に至るまでにいわゆるジャパン・タウンというものが形成されてこなかったのはなぜでしょうか。

舟山:やはり日本人の数がまだまだ少ないということだと思いますよ。ロサンゼルスに行くとジャパニーズ・タウンがあるでしょう。それと同じようなものを私は作りたくて、ノースブリッジに東京マートを開きました。あそこに行ったら必ず日本人に会いますし、ジャパン・タウンと呼べなくもないですね。

作野:そうですね。ただ、大規模のものができないのはなぜでしょうか。

舟山:やっぱり人口ですね。全オーストラリアに中国人はどのくらいいると思いますか。120万人です。対して日本人はたったの10万人。これから三世、四世が出ればブラジルのように増えて行くのではないでしょうか。

人の真似をしてはいけない

作野:舟山さんはこちらで骨を埋めるというか、一生こちらでとお考えですか、それとも日本に帰りたいと思われますか。

舟山:帰りたいとは思わないですね。娘も息子も子どもたちみんなこっちですから。

作野:日豪プレスの読者の中には30代~40代で新しいことを始めようとしている人も多いのですが、その方々に何かご経験からのアドバイスなどお言葉を頂戴できればと。

舟山:もし起業したいのであれば人の真似をしちゃだめです。自分で工夫することが重要です。

作野:59年と長きに渡り活躍されていますが、今なお、夢はおありですか。

舟山:いくらでもありますよ。インターネット、特にソーシャル・メディアを使ったビジネスをやってみたいですね。他にも白髪染めとか入れ歯、そういうエイジングに関わる特殊な技術はビジネスとしてうまくいくでしょうからトライしてみたいです。

作野:ジュンパシフィック、東京マートはこれからどういう風にしていきたいですか。

舟山:やはりもっと大きくしたいですね。輸入したいものもまだまだたくさんあります。直接輸入できないものを、仕方なく自分で作るなど工夫して売ってきたりもしましたが、やはりもっと幅を広げたいです。

作野:どんなビジネスもさまざまな工夫が必要ですね。

舟山:はい。中でも苦労したのはお酒ですね。アルコールのライセンスを取るのは本当に難しかった。それでも何とか日本酒を広めたいという思いから、弁護士の力添えで販売できるようになりました。

作野:舟山さんのお話を伺っていると、問題にぶつかっても常に1つ1つ解決されていて、だからこそ今目の前にあるビジネスが出来上がってきたということが分かります。

──現在、日本食卸の会社も多くなってきていますが進出していますが、貴社のビジネスへの影響はいかがですか。

舟山:もちろん、ないことはないですよ。でも競争相手はあればあるほど良いと考えています。ただ、現社長の梅田にもいつも言っていることですが、闇雲に大きくなればいいわけではないんです。大きくなりすぎるとどこかで満足度が低くなる。『ローマ帝国のように大きくなりすぎない。その分充実させる』ことを目指しています。東京マートに行けばなんでもある。そんな風に思ってもらえることを目指して頑張っています。

作野:東京マートは今や日本人にとってはオアシス、あるいはライフライン、日本人以外にとっては日本の食文化の基点となっています。創業から44年間努力を継続されたたまものですね。お話をお伺いし、諦めずに信念を貫いてしっかりと地に足をつけ長期間かけて努力を継続することがいかに大事であるかということを改めて感じました。私はスタートアップへのアドバイスや投資も行っているのですが、起業家が2~3年で成功できる青写真を描いたり、投資家が短期的なリターンを求めたり、ビジネスのスパンが短い人が少なくありません。どれだけ有能でも舟山さんの10分の1以下の期間で努力して成功を成し遂げられるはずがない。何十年もぶれないビジョンを持ち、困難に立ち向かい続ける精神力を養うことで、成功への道が開けると改めて思いました。大先輩の舟山さんに比べ、まだまだ若造の私ですが、できれば30年前ぐらいの舟山さんにもお会いして一緒にお仕事させて頂きたかったです(笑)。諦めずに戦って海苔の輸入を勝ち取った、そんな後の世代に残せるような功績を私も目指したいと思います。

──本日は貴重なお話をありがとうございました。

(10月28日、ジュン・パシフィック本社で)

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