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「良い人たちと巡り会いたくさんの人が応援してくれた」――マクラレン温子さん

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オーストラリアでを生きる人

オーストラリアの日系コミュニティーで今を生きる、さまざまな人のライフスタイルを追うコラム。

Vol.35 マクラレン温子(たづこ)さん
良い人たちと巡り会い、たくさんの人が応援してくれた

Photo: Kazuya Baba

1970年代に国際結婚でNSW州北東部バロナに移住し、サザンクロス大学リズモア・キャンパスで日本語を教える傍ら、交流の施設「グリン神父記念日豪センター」の設立に尽力した。日豪の和解と友好への貢献がたたえられ、2018年のオーストラリア・デーに勲章「メダル・オブ・オーダー・オブ・オーストラリア」(OAM)を受勲、同年10月には日本の外務大臣賞を受賞している。(聞き手:守屋太郎)

――海外に興味を持ったきっかけは?

甲南女子大学の英文科を卒業後、大阪万博が開催された1970年に米国とカナダに語学留学しました。その時、米国のオレゴン州の小さな海辺の町の家庭にホームステイしました。ホストファミリーのお母さんや子どもが質素な手作りの服を着ていて、ハンドバッグもビニール。身なりを気にしないのに、立派な家に住んでいました。「日本とは随分価値観が違う」と感じましたが、その一方で、家族を非常に大切にしていて「昔の日本の家族のようだ」という印象を持ちました。

日本に住んでいると「日本が一番」と思っていましたが、その時の経験から「世界の人は皆、同じなんだなあ」ということを感じたのです。

語学留学を終えた後、海外に関わる仕事をしてみたいと思い、神戸のYWCAの通訳ガイド講座に通いました。そのころ、神戸港には外国船が多く寄港していて、講師として来られた神戸市の国際交流担当の方から「歓迎会などで通訳の手伝いをしてくれないか」と頼まれました。その時、仕事で船で神戸に来たオーストラリア人の夫と知り合いました。オーストラリアに初めてやって来たのは1972年。翌年に結婚してこの国に住み着くことになったのです。

――慣れない海外生活でご苦労はありましたか?

当時のバロナでは東洋系の市民は非常に珍しかったので、町を歩くとジロジロ見られるのです。ある日、美容院でパーマを当てていた時も、前に座っている女性がじっと私のことを見ていました。私は「私の顔に何か付いているんですか?」と言おうかとも思いましたが、雑誌を読むふりをしてじっと我慢していました。

すると、男性が私の肩をたたき、紅茶を持ってきてくれました。その女性からのプレゼントだというのです。その時、彼女は初めてにっこりとほほ笑みました。私は「人が私をジロジロ見るのは、ただの好奇心からであって、悪気はないんだ」ということを理解しました。その時から人にジロジロ見られるのを気にしなくなりました。

ただ、当時はまだ戦争を体験した世代も多かった。私自身が嫌な経験をしたことはありませんが、こんなことがありました。1973年に地元のロータリー・クラブが初めて日本人の交換留学生を受け入れたのですが、その時、意見が真っ二つに分かれ、反対派が皆、ロータリー・クラブを辞めていったそうです。その話を初めて聞いて、反日感情があることにショックを受けました。当時、テレビ・ドラマや映画でも、日本兵が悪役で醜く描かれていることが多かった。子どもを産んだ時、いじめられるんじゃないかと心配したくらいです。

――日豪和解の活動を始めたきっかけは?

2018年5月、シドニーで行われたOAM受勲式。左からサザンクロス大学のジョン・ダウド元総長、マクラレンさん、長女のリサ・ポールターさん、長男のケン・マクラレンさん
2018年5月、シドニーで行われたOAM受勲式。左からサザンクロス大学のジョン・ダウド元総長、マクラレンさん、長女のリサ・ポールターさん、長男のケン・マクラレンさん
マクラレンさんが設立に尽力したサザンクロス大学のジャパン・センター
マクラレンさんが設立に尽力したサザンクロス大学のジャパン・センター

地元のTAFE(州立の職業訓練専門学校)などで、日本語を教えていました。当時、政府がアジア語学学習を奨励していて、日本語を教える高校が増えていたので、州教育省の日本語教師向けプログラムの作成にも携わりました。NSW州北東部リズモアのニュー・イングランド大学ノーザン・リバーズ校(現在のサザンクロス大学)に文学部日本語学科が設置され、日本語講師として採用されました。

大学が海外から語学研修生を受け入れ始めたころ、「日本人とオーストラリア人学生の交流の場があれば」と考えたのです。「万博記念基金事業」(1970年の大阪万博の収益金の一部を基金として管理し、運用益を国際親善や文化交流に役立てるもの)の助成金1,000万円を活用し、交流の施設として「ジャパン・センター」を設立する構想につながりました。

そのころ、たまたま新聞の小さな広告で、リズモアの教会の日本人のための礼拝が告知されていました。そこで、ポール・グリン神父(1963年に日豪間で初となった奈良県大和高田市とリズモアの姉妹都市提携締結に尽力した)と出会い、同時に映画撮影のためオーストラリアに来ていた千葉茂樹監督(日本の映画監督)夫妻ともお会いすることになります。

千葉監督夫妻は当時、映画『豪日に架ける―愛の鉄道』を撮影していました。

第2次世界大戦中に日本軍が、ハワイの真珠湾攻撃に匹敵するぐらいの規模で、ダーウィンを攻撃、壊滅させたことや、シドニー湾を特殊潜航艇で攻撃したことは、私たち日本人にはほとんど知られていません。

そのため、オーストラリアは戦後、反日感情の非常に強い国でした。しかし、ライオネル・マーズデン神父は戦時中に日本軍の捕虜となりながらも、「戦争は人間ではなく、軍国主義が悪いのだから、日本人を許そう」と訴え続け、日豪和解に尽力しました。トニ・グリン神父とポール・グリン神父は戦後、先輩であるマーズデン神父の話に感動し、奈良県を始め日本の各地で、日本の復興と日豪の和解に力を注ぎました。千葉監督の『豪日に架ける―愛の鉄道』は、そのグリン神父兄弟らの日豪友好活動を取り上げたドキュメンタリー映画です。

私は偶然、リズモアの教会の撮影の場に居合わせ、その後、シドニーでグリン神父と千葉監督にお会いしました。公開前の映画を見せてもらい、グリン神父兄弟の日本人への深い愛情に感銘を受けました。その時、「ジャパン・センター」にグリン神父の名前を付けようと考えました。交流施設の構想と千葉監督の映画が1つに結び付いたのです。

センター設立準備委員会を設立、実現に向けて動き出しました。ところが、万博記念基金事業では自前資金を別に1,000万円用意しなければならないことが分かり、資金不足のためセンター設立の機運は立ち消えになりそうでした。

千葉監督やプロデューサーの千葉好美氏(夫人)、高橋雅二・百合子日本国全権大使(当時)ご夫妻の強い後押しがあり、私はセンター設立活動を続行し、寄付金を募るために『愛の鉄道』の上映会を企画しました。

ところが、ここでも壁にぶつかりました。『愛の鉄道』が映画祭に出品されることになり、事前の一般公開ができなくなったのです。そこで、映画のテーマ・ソングを手掛けた歌手の荒井敦子氏をお呼びして、サザンクロス大学でチャリティーの音楽会を開くことにしました。荒井氏はちょうどシドニーに来られていて、映画でトニ・グリン神父を演じたオーストラリアの音楽グループ「ウィグルズ」とレコーディングをされていました。音楽会では、サザンクロス大学音楽学部のアカペラ・グループ「イザベラ・ア・カペラ」も一緒に公演し、カーペンターズのような美しいハーモニーに感動しました。そこで、イザベラ・ア・カペラの日本コンサート・ツアーを思い付いたのです。

そして、2001年、福井県の繊維会社の社長さんから頂いた寄付金から旅費を捻出して、初めてのイザベラ・ア・カペラのジャパン・センター基金活動コンサート・ツアーを日本各地で開催しました。その後も、コンサート旅行は続けられ、夫も応援してくれ、4年後、約400万円の資金を集めました。その資金を大学に寄付し、大学の力強いサポートもあって、2004年、新しい建物の中に「グリン神父記念日豪センター・ギャラリー」を開設することができました。

更に、2011年の東日本大震災の直後からは、在日オーストラリア大使館の後援で、イザベラ・ア・カペラの津波被災者支援のチャリティー公演も続いています。その時にお世話になったマクレーン駐日大使(当時)が、私の勲章受勲を推薦してくださったそうです。

――日豪両国の「和解」に貢献されたことで、2018年にはオーストラリアの勲章を受勲され、日本の外務大臣賞も受賞されました。これまでのオーストラリア生活と、日豪和解の活動を振り返って思うことは?

計画したのではなく、1つひとつの偶然の出来事がつながっていったのだと思います。とても真面目な夫に出会えたのは幸運でした。グリン神父にお会いできたのも、たまたま新聞を見たのがきっかけでした。その教会で映画の撮影隊に会い、千葉監督ご夫妻とお知り合いになれたのも幸せでした。良い人たちと巡り会い、たくさんの人が応援してくださったことで、今があるのだと考えています。また、日本ではあまり知られていない日豪の和解の歴史と、グリン神父兄弟の偉大な功績を若い人たちに伝えていきたいと思っています。

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