メルボルンはかつて世界一の金持ち都市となり「マーベラス・メルボルン」と呼ばれた栄華の時代があった。メルボルンを首都としたオーストラリア連邦政府ができる1901年までの50年間、メルボルンっ子はいかにして驚異のメルボルンを作り上げていったのか――。
第31回 ビクトリア・バラックス(メルボルンが2度、首都になった話)
1851年にビクトリアでゴールド・ラッシュが始まり、金塊の安全な輸送を目的として、イギリスは駐留部隊の本部をシドニーからメルボルンに移した。
ビクトリア・バラックス(以下、VB)はイギリス軍メルボルン駐留部隊の兵舎として56年ごろから建設が始まった。しかし、それまではフラッグスタッフ公園やバットマン・ヒル、プリンセス橋などにキャンプをしていた。
VBはビクトリア植民地軍とイギリス駐留軍の統合本部となり、その後イギリス軍が撤退したため、ビクトリア植民地陸海軍の総司令部となった。
ニュージーランドでのマオリ族との紛争、南アフリカのボーア戦争、中国・義和団事変などの際には徴兵や出兵の調整、兵士の管理本部としての役割を果たした。
1901年に連邦国家が成立し、メルボルンはオーストラリアにおける最初の首都となった。連邦政府内閣、国会議事堂などがメルボルンに置かれたが、連邦軍本部がVBにあったことも、メルボルンが首都になった要因である。
ジョン・フォレスト初代国防大臣はVBに国防省を置き、名実共に陸海空軍の総本部となった。
第1次世界大戦の際には、オーストラリア軍ヨーロッパ遠征本部として指揮を執った。管理部門の人員が増えたため敷地内にあった兵舎は事務所に替えられた。
27年に連邦政府は新首都キャンベラに移動したが、キャンベラには軍事施設がなく、軍の総本部はメルボルンにとどまった。
39年に第2次世界大戦が始まり、軍事上の重要な作戦は全てVBで決定された。
ジョン・カーティン戦時内閣首相は戦争臨時内閣をメルボルンに置いた。この時、メルボルンは2回目の連邦政府首都となった。
初の戦時委員会の2日後に日本軍の潜水艦がシドニー沿岸に接近し、日本軍空軍機もメルボルンに爆撃可能な位置まで到達した。
39年9月27日から42年4月18日までVBに戦争遂行委員会が置かれ、オーストラリア軍部の全戦闘部隊はアメリカ軍ダグラス・マッカーサー将軍の指揮下に入った。マッカーサー将軍はフィリピンでアメリカ極東軍&フィリピン軍総司令官として指揮を執っていたが、日本軍の攻撃によりマニラが陥落して、メルボルンに退避していた。戦後マッカーサー将軍は、日本進駐軍総司令官となった。
58年には、国防省はキャンベラに移動した。セントキルダ通りに面した場所に設置してある2台の大砲は1854年のクリミア戦争の際にロシア軍から獲得した物である。第1次世界大戦の際にパレスチナでドイツ軍から獲得した2台の臼砲も展示されている。
文・写真=イタさん(板屋雅博)
日豪プレスのジャーナリスト、フォトグラファー、駐日代表
東京の神田神保町で叶屋不動産(Web: kano-ya.biz)を経営