第3回
4年に一度のスポーツの祭典「2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会」が日に日に迫る中、同大会への出場、
メダル獲得を目指しオーストラリアを拠点に奮闘を続ける、また来豪したオリンピック、パラ・アスリートをインタビュー。
パラ陸上実業団選手兼監督
松永仁志さん
東京パラリンピックを目指す4年間は競技人生最後のご褒美
陸上(トラック)選手として、2008年の北京から3大会連続でのパラリンピック出場を始め輝かしい実績を誇る松永仁志さん。16年のリオでは陸上日本チームの主将を務めるなど日本のパラ陸上界をリードしてきた。46歳の大ベテランとなった今も、若手選手2人の監督を務める傍ら、東京パラリンピック出場に向け走り続けている。今年1月下旬、大会のために来豪した松永さんに、これまでのパラ競技人生、来る東京パラリンピックへの思いを聞いた。(聞き手=山内亮治)
パラ競技人生の始まり
――現在の競技人生につながる、障がいを負ったきっかけについて教えてください。
高校2年生だった1988年に障がいを負うきっかけとなる事故に遭いました。
子どものころ、親が転勤族だったため転々と学校が変わる生活をしており、そこに多感な時期が重なってか、中高ではやんちゃに憧れていました。そんな時、オートバイで自ら起こした事故によって脊髄(せきずい)を損傷、両下肢(かし)の機能を失いました。
――そこから障がいを受け入れるまでは壮絶だったのではないですか。
高校2年生で障がいを負いましたが、当時を振り返ってみると障がいを負った事実を認めたくなかったというより、「強がっていた」という気持ちの方が強かった気がします。
本当は不安で悲しくて仕方ありませんでした。しかし、そんな気持ちを素直に表に出せるほど自分は強くなかったんです。ひたすら強がっては親にも友達にも常に平静を装っていました。そうやって強がりを続けたことによって、次第に強がっている自分が普通になってきました。
事故後、「もうだめだ」と人生を悲観してふさぎこみ、歩みを止めることもできたかもしれません。ただ、自分はその決断ができなかっただけなんです。わずか10代でその後の将来を考えた時、障がいを受け入れたというよりは立ち止まることを恐れ、前に進もうを決めました。
――その恐れがパラ競技人生の原動力となりましたか。
障がいを負った当初は「スポーツで成り上がろう」という気持ちはありませんでした。前に進むために何かできることはないかと考えているうちに、元々スポーツが好きでしたから車いすバスケットボールや陸上をするようになり、その両方を10年くらい並行してやりました。
――そこからどういう経緯で陸上を選んだのですか。
自分は障がいが重い方のクラスにいるので競技の上達には時間が掛かりましたが、20代後半に差し掛かったころにある疑問を感じました。陸上もバスケットボールも在住の岡山県内で1番、2番になれるようになったのですが、ふと「今までトップに立つために何かを本気で頑張っただろうか」という思いが胸に沸いてきたんです。
幼いころからいろいろな競技をする中で感じたことなのですが、恐らく自分は「すぐに何でも“そこそこ”できてしまう」タイプなんです。その反面、トップに立つための競争や努力をあえて避け、いつも二番手、三番手のポジションに甘んじて生きてきた気がしていました。周囲には「一番を目指す」などと言っていましたが、そのために人生を投げ打ってまで何かに挑戦したことが果たしてあっただろうかと、そのころジレンマに陥っていたんです。
当時所属していたバスケットボール・チームでも日本一を目指すという気持ちで、陸上と共に強い上昇志向を持っていました。しかし、自分が在籍していたチームでは皆、口々に勝ちたいと言うものの、勝利への高い意識が見られませんでした。
「本気で何かに挑戦したいのにその気持ちの芽を摘まれている」と感じる状態が1、2年続いた末に、陸上だけに絞りました。陸上は基本的に個人競技なので、自分の意思で本気で何かを目指し挑戦できるのではないかと考えたんです。
人生を賭けた4年間
――2008年の北京以降、3大会連続でパラリンピックに出場されるなどすばらしい戦績を誇っています。ここに至る上での選手としての転機はどのようなタイミングで訪れましたか。
転機となったのは、2000年のシドニー・パラリンピック後です。それまで自己流で練習していましたが、選手としての成長に限界を感じていました。そこで、大分県・別府在住のある指導者の元を訪ね、仕事のない土日に大分で朝から晩まで練習する生活を始めました。この生活を続けるうちに本気でアテネを目指そうという気持ちになり、実際に力が着いてきました。そして、02年に韓国・釜山で開催された国際大会の日本代表に選ばれました。
――北京で初めて出場したパラリンピックにはどのような感情を抱きましたか。
アテネ大会の出場に失敗していた分、うれしかったです。
アテネの出場に向けて、2000年から04年まで自分としては人生を賭けた4年間を過ごしてきたつもりでしたが、出場がかないませんでした。これは非常にショックな出来事で、自分はアスリートとしてダメなのかと思い悩みました。
そこで思い切って仕事を辞め、1年間だけ競技に専念することにしました。北京を目指す上で、アテネまでと同じ過ごし方をしていたのでは再び失敗すると思ったからです。
アテネまでの会社員時代には、毎日午後8~9時まで働き、仕事を終えるとそこから1時間半近く人気のない一般道で練習し、深夜に帰宅する生活を送っていました。加えて、週末は大分で練習です。密度の濃い時間を送っていましたが、やはり追い込んだ分だけ休養を取らなければ状態が上がってきませんでした。もっと練習したいのであればそのための休養もしっかりと取らなければならず、仕事と両立していては難しい状況でした。そうして04年末に仕事を辞め、1年間競技に専念した結果、05年のユーロ・チャンピオンシップ(ヨーロッパ選手権)でメダルを獲得できました。なので、個人的には北京の出場よりも05年のメダル獲得の方が思い出としては大きいですね。この時、許された気がしたんです。まだ競技を続けても良いと。
4回目のパラリンピックへ
――現在46歳ですが、その年齢になっても現役として活躍を続けられる秘訣とは何でしょうか。
本当は16年のリオ・パラリンピック後に現役を引退しようと考えていました。13年に東京オリンピック・パラリンピックの招致が決まっていましたが、プロ・アスリートである以上、結果を残せなくなった時点で責任を果たせていないという思いがありましたから、16年が現役最後の年になるだろうという気がしていました。
しかし、リオが終わると東京への周囲の機運が高まっていて、もう4年間競技を続けてみてはどうかと言ってくれる人が増えたんです。リオまでは、スポンサーが応援してくれるので結果を残さなければと考えていましたが、周囲の自分を支持する声を聞く中で新しい4年間をこれまでとは違う形でスタートすることができたんです。
長く競技を続ける中で、監督としての若手選手育成に加え、パラ・スポーツ認知のための活動もしてきました。少しおこがましいかもしれませんが、東京までの4年間は自分がしてきた活動への唯一のご褒美だと思っています。
自分の身体能力や年齢、現在の陸上競技の流れなど、あらゆることを考慮した結果、自分が東京でメダルを獲得できる確率は1%もないという気がしています。ただ、1%にも満たない可能性にチャレンジする期間を周囲は自分に与えてくれました。限りなくゼロに近い確率でも挑戦させて頂いているというのが自分の現状です。
――リオでは陸上日本代表チームの主将を務められたと伺っています。4回目のパラリンピック出場がかなうとしたら、その時、ご自身に求められることは何だと思いますか。
パラリンピックに出場する以上、楽しまなければ損だと思っています。
他の選手にも言えることですが、確かにパラリンピックに出るまではいろいろな人の応援・支援だけでなく自分の欲をも糧にして、それに応えようと必死に4年間努力しますし、日本代表として戦うことには責任があります。それでも、4年間の努力の末に勝ち得た出場権は自分のためだけに使っても良いのではないでしょうか。スタート・ラインに立ってからゴールを切る瞬間までは、選手は何もかも忘れて自分のためだけにレースを走り楽しんで欲しいと思います。
松永仁志(まつながひとし)
1972年9月15日生まれ、大阪府出身。岡山県在住。88年、高校2年生次にオートバイで起こした事故で脊髄損傷、両下肢の機能を失う。その後、車いすバスケットボールと陸上を始め、20代後半で陸上専門に。2005年のユーロ・チャンピオンシップでの活躍以降、北京、ロンドン、リオとパラリンピックに3大会連続出場。現在は、パラ陸上実業団「WORLD-AC」で佐藤友祈選手と生馬知季選手の監督を務める傍ら、選手としても活動中