メルボルンはかつて世界一の金持ち都市となり「マーベラス・メルボルン」と呼ばれた栄華の時代があった。メルボルンを首都としたオーストラリア連邦政府ができる1901年までの50年間、メルボルンっ子はいかにして驚異のメルボルンを作り上げていったのか――。
第33回 初期移民・リアルデットの話
ポート・メルボルンは移民初期時代に多くの移民船が押し寄せた場所である。今回は同地に最初に定住したイギリス人ウィブラハム・リアルデットの話で、移民船の貨物の荷揚げ方法や初期の移民の生活などが分かる。
リアルデットは、1799年にロンドンのチェルシーで生まれた。海軍に入隊したが、親から3万ポンドの遺産を得て除隊。従妹のカロリナと結婚し、11人の子どもをもうけた。1839年に帆船メットカーフ号でメルボルン湾に到着。同船の船長から鯨捕りの手漕ぎボートを購入し、子どもたちの助けも得て、自分たち家族の荷物を荷揚げした。
リアルデットは、その手漕ぎボートを使い海岸に到着する多数の移民船から、郵便物や手荷物の荷揚げ用に日に3回の「郵便シャトル」便を運航した。当時のメルボルン海岸には桟橋がなく、移民船は荷揚げに苦労したため、リアルデットの荷揚げ船には多額の費用が支払われた。
リアルデットが上陸した場所は、サンドリッジ海岸(現ポート・メルボルン)でシドニーから来たNSW植民地政府調査員ウィリアム・ダークと彼の家族の家の近くであった。
ダークは、草原を切り開いて海岸までの通りを造り、「ダークの箱舟」として知られた牛車を所有していた。ダークはこの地を「サンドリッジ」と名付けた。リアルデットが同地に到着した時、サンドリッジ海岸には2人のイギリス人漁師が帆船で運んできた砂糖の大樽から作った家に住んでいた。
リアルデット家族は、イギリスから持ってきたテントに住んでいたが、すぐに小さな小屋を建てた。
リアルデットは、お茶の木(オーストラリア原産の低木)を使い荷揚げボート保管用に簡易な桟橋を造っていた。ピア・ホテル(The Pier Hotel)は、リアルデットによって1840年に造られ、現在も海岸通りの同じ場所に存在する。この海岸を世間では「リアルデットの海岸」と呼んでいたが、公的には「サンドリッジ海岸」とされた。
リアルデットが1840年に建設した桟橋は、メルボルン・タウンピア桟橋として移民の受け入れに使われ、一部は1930年代まで残っていた。ゴールド・ラッシュ後は、桟橋設備への住民からの要望が強く何度も拡張された。その後は、サウス・メルボルン・ガス工場への石炭の荷揚げ港として主に使用された。桟橋は老朽化して危険になったので、解体され60年代にポート・メルボルン・ヨット・クラブが作られた。
1830年代から40年代のオーストラリアの主要産業は捕鯨で、主要輸出品目は鯨肉であった。リアルデットのメットカーフ号も捕鯨用の船であり、ポートランドなどビクトリアの主な海岸都市は捕鯨基地が母体である。
文・写真=イタさん(板屋雅博)
日豪プレスのジャーナリスト、フォトグラファー、駐日代表
東京の神田神保町で叶屋不動産(Web: kano-ya.biz)を経営