メルボルンはかつて世界一の金持ち都市となり「マーベラス・メルボルン」と呼ばれた栄華の時代があった。メルボルンを首都としたオーストラリア連邦政府ができる1901年までの50年間、メルボルンっ子はいかにして驚異のメルボルンを作り上げていったのか――。
第36回 888運動とレイバー・デー
メルボルン大学発祥地である法学部校舎を建設していた石工たちは、1856年に労働組合を組織して抗議運動を行った。同年4月21日、建築関係労働組合のメンバーと共にビクトリア植民地政府議事堂まで888と書かれたバナーを持って行進。これはイギリスの社会活動家ロバート・オーエンの8時間運動を意識したものだった。18世紀に同国で始まった産業革命により女性、子どもを含む多くの労働者が1日14時間から16時間、週6日間、工場で働かされるようになった。
オーエンは1810年に8時間運動を唱え始め、それは8時間を労働、8時間を睡眠・休息、8時間を自分のためにという運動であった。メルボルンの建築労働者を率いたジェームズ・ステファンズは、世界初の労働者階級の政治運動と言われるイギリスのチャーチスト運動で頭角を現したが、当局の追及を逃れるためにメルボルンに53年に移民した。労働者は、8時間運動について多くのミーティングなどを当時新築のベルビデア・ホテルを本部として行なった。
政府が強力なイギリスでは失敗に終わったが、成立して間もないビクトリア植民地政府は、筋金入りの組合主義者に率いられた労働者の運動にはひとたまりもなかった。政府は公共建築に雇われた労働者には8時間労働を約束。10時間分の賃金と週12時間の労働時間短縮は、彼らの生活水準を劇的に向上させた。56年5月12日を祝日として多くの労働組合と労働者が参加してパレードを実施。建築業界で8時間労働が確立され、8時間労働制は広くビクトリアで普及した。
ドイツの思想家ローザ・ルクセンブルクは、メルボルンの4月21日の行進を世界のメーデー(May Day)の起源であり、アメリカや欧州の888運動の刺激となったと記している。アメリカの労働者が8時間労働運動を始めたのは1880年代、欧州では1910年代である。メルボルンでの労働者の勝利は時代の先駆けであった。シドニーでもメルボルンに刺激されて労働運動が始まり、8時間労働を一部では勝ち取ったが、一方で減給を伴った。メルボルンでの勝利が画期的だったなのは、政府が承認したこと、減給がなかったこと、影響が他の業界に広がったことである。
オーストラリア労働組合運動は8時間労働キャンペーンを通じて拡大、888のスローガンは全労働組合のビルに掲げられた。
8時間運動の勝利により建設されたビクトリア・トレード・ホールは、世界最古の労働組合会館である。ビクトリア州で最初の祝日は、8時間闘争と結果を記念する日であり、後の労働者の日(レイバー・デー)となり、8時間運動パレードは、1856年から1951年まで継続され、現在のムーンバ・パレードとなった。
文・写真=イタさん(板屋雅博)
日豪プレスのジャーナリスト、フォトグラファー、駐日代表
東京の神田神保町で叶屋不動産(Web: kano-ya.biz)を経営