メルボルンはかつて世界一の金持ち都市となり「マーベラス・メルボルン」と呼ばれた栄華の時代があった。メルボルンを首都としたオーストラリア連邦政府ができる1901年までの50年間、メルボルンっ子はいかにして驚異のメルボルンを作り上げていったのか――。
第37回 メルボルン魚市場
移民はオーストラリアに牛肉を求めてやってきた。しかし、1800年代半ばのメルボルンでは魚もよく売れていた。ビクトリアの海岸線で捕れる豊かな魚介類が食料源だったのだ。魚市場はプリンセス橋の露天で自然発生的に開かれ、ビクトリア中から集まった漁師が街中の鮮魚店や市民に販売した。タイ、コチ、カマス、サケ、マスなどがプリンセス橋まで小舟で輸送されていた。
1865年12月、オーストラリア初の公設魚市場ビルが、現在のフリンダース駅時計ドームの場所にオープン。高さ16メートルの巨大な中央ホールには12の卸売り鮮魚店や、一般客用の商店があった。ホールに手押し車を入れて競り市が行われ、新鮮な水が噴き出る泉で魚介類を洗った。66年には毎週、魚箱400個(12トン)が取引され、伊勢エビや貝類も取り扱われていた。毎日フランクストン、ヘイスティングスなどから、捕れたての魚貝類が船と馬車で市場に運ばれた。アポロベイ、ポート・アルバートなどの遠隔地からは、魚介類を細枝で編んだ籠に入れるなどして生きたまま蒸気船で運ばれた。
84年にメルボルン鉄道会社は、フリンダース駅拡大のために魚市場に移転を要求した。その一方で、市民からも市場の施設に対する要望が強まっていた。メルボルン南部まで鉄道が開通したことで遠隔地からの輸送速度が速まり、輸送量が拡大。その結果、市場の魚の取り扱い量が格段に増加し、夏場には冷却設備が必要になるなど、施設の改築が求められていたのだ。
そこで91年に新しく「フェデレーション魚市場」が建設された。フリンダース通りの南側からスペンサー通りまでの6,000坪の土地に建設され、冷蔵倉庫群、高架下店舗が作られた。更に市場には鉄道支線が引き込まれ、プラットフォームで魚を積み下ろし、荷車で直接市場に運ぶことが可能になった。市場にはレストランもでき、魚を持ち込んで調理してもらうこともできた。1907年ごろには、年間に魚箱19万個が取り扱われるようになった。
魚の競り市は、朝6時半に150人程の仲買人によって開かれ、2度目の競り市は午前10時に飲食店や小売店のために開かれた。戦後50年代の好況期には、冷蔵トラックが使用され始め、魚市場直近のスペンサー通り橋は、搬入や荷降ろしの車で大渋滞を引き起こした。
フェデレーション魚市場は60年以上が経過し、建物の劣化、働く人の健康問題、ネズミの被害、魚の臭いなどで移転を迫られた。市場は54年にフッツクレイに移転し、フェデレーション魚市場は59年に解体された。その後、ベトナム人、イタリア人、ギリシャ人の移民の増加、更に日本食の普及によるすし用の高級魚の要望も高まり、市場で扱われる魚の種類は増えた。
文・写真=イタさん(板屋雅博)
日豪プレスのジャーナリスト、フォトグラファー、駐日代表
東京の神田神保町で叶屋不動産(Web: kano-ya.biz)を経営