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マーベラス・メルボルン「電信の発達」

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メルボルンはかつて世界一の金持ち都市となり「マーベラス・メルボルン」と呼ばれた栄華の時代があった。メルボルンを首都としたオーストラリア連邦政府ができる1901年までの50年間、メルボルンっ子はいかにして驚異のメルボルンを作り上げていったのか――。

第40回 電信の発達

オーストラリアで最初の電信通信が行われたウィリアムズタウン電信郵便局
オーストラリアで最初の電信通信が行われたウィリアムズタウン電信郵便局

オーストラリアは欧米先進国からは隔絶した遠距離にあり、19世紀には帆船を使った情報伝達の手段しかなかったため、電信での情報伝達への要望は非常に強かった。世界最初の公式電信は、1844年の米国の首都ワシントンと港町ボルチモアの71キロメートルの間に設けられた。そして、オーストラリア最初の電信は、1854年にメルボルンとウィリアムズタウン間に敷設された。当時、電信はヨーロッパの一部で導入が始まったばかりであり、ゴールド・ラッシュによって富裕都市であったメルボルンは、最先端の技術を世界に先駆けて導入したのだ。

アイルランド人の電信技士サミュエル・マクゴワンが技師として採用され、1853年から54年に掛けて、メルボルンとウィリアムズタウンの17キロメートルの距離にビクトリア植民地政府によって電信線が架設された。マクゴワンは、モールス信号の生みの親であるサミュエル・モールス教授の下で経験を積んでいた。マクゴワンはビクトリアのゴールド・ラッシュを聞いて、電信の需要があると確信して移民していたのだ。

クイーンズクリフ電信郵便局
クイーンズクリフ電信郵便局
サウス・メルボルン電信郵便局
サウス・メルボルン電信郵便局
サウスヤラ電信郵便局
サウスヤラ電信郵便局

電信線は54年3月に操業を開始した。最初の年には4,000本の電信文が送受信され、電信線は同年12月にはメルボルンとジロン間に延長された。ジロンからメルボルンに向けて打電された最初のメッセージは、バララットで起きたユーレカ砦(とりで)の反乱(前号の39回参照)のニュースであった。それまで数日掛かっていた情報伝達が、電信によって数分で可能になった事実はビクトリア政府を大きく動かした。

57年にはビクトリアの主要都市に行き渡り、67年には総延長2,700キロメートルの電信線が敷設され、年間12万通のメッセージが配達された。

南オーストラリア(SA)州では54年に電信の導入を計画したが失敗が続き、マクゴワンに依頼して57年4月にメルボルンとアデレード間が電信で結ばれた。タスマニアでは、ホバートとロンセストン間が57年に結ばれ、ニュー・サウス・ウェールズ州では、57年にシドニーとリバプール間が結ばれた。ウエスタン・オーストラリア(WA)州では、パースとフリーマントル間が開通したのは69年であった。ビクトリアの導入が圧倒的に早かったのが分かる。

58年以降、豪州の主な都市は電信でつながり、77年にはWA州パースまで到達した。当時のパースの人口はわずか2万5,000人で、電信線設置費用の大半は、SA州植民地政府が負担した。

アデレードからダーウィンまで3,200キロメートルの大陸を縦断して電信線が72年に敷設され、オーストラリア全土は英国や世界と電信で初めて結ばれた。


文・写真=イタさん(板屋雅博)
日豪プレスのジャーナリスト、フォトグラファー、駐日代表
東京の神田神保町で叶屋不動産(Web: kano-ya.biz)を経営

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